古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

成瀬諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県入間郡越生町成瀬6731
              ・ご祭神 建御名方命 木花開耶姫命
              ・社 格 旧成瀬村鎮守・旧村社
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9769209,139.2857946,17z?hl=ja&entry=ttu
 津久根八幡神社から越辺川を越えて350m程北上すると、十字路となり、そこを左折、200m程道なりに進むと「弘法山観世音」の専用駐車場に達する。
 実は、古池鹿嶋神社から津久根八幡神社に向かう途中にこの十字路を通り過ぎてしまったわけであるが、津久根八幡神社を先に参拝したかったがためにこの成瀬諏訪神社が後になってしまった。理由は勿論あったが、それは後に説明する。
「弘法山観世音」の石段を越えて本殿に達するわけであるが、そこから右方向に進むと諏訪神社の看板と鳥居が見えてくる。
        
                                
弘法山観世音の石段
『日本歴史地名大系』 「成瀬村」の解説
 [現在地名]越生町成瀬
 大谷村の西、越辺川とその支流渋沢川に挟まれた緩丘地に立地。現東京都青梅市安楽寺蔵の大般若経巻一一六の奥書に、永和五年(一三七九)四月上旬「武州入西郡越生郷成瀬村」の住僧良察が書写したとある。田園簿では田高一六九石余・畑高三九石余、幕府領。

        
        石段の左側に設置されている「
弘法山と子育て観世音」の案内板
 弘法山と子育て観世音   越生町成瀬
 弘法山は、山頂に諏訪神社、中腹に観音堂、山麓に見正寺と、全山に信仰対象が置かれている。
山頂からの優れた眺望については、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「高房山図」の絵入りで掲載されている。「高さ五丁余りにて、四辺は松杉生ひ茂りて中腹に妙見寺あり。夫より頂までは殊に険阻の山なり。頂には浅間の祠を建て、祠辺よりの眺望最も打ち開けたり。先ず東の方は筑波の山を始めとして、比企、足立、江戸を打越して、遠く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西は秩父ヶ岳及び比企郡笠山、乳首山など連り、北は三国峠より信州、越州の高山見えたり」と、海抜二百メート ル足らずの山について異例の紙幅を割いている。
 当地の小字名は「高房」で、弘法山も古くは「高房山」と記されていた。妙見寺は真言宗寺院であり、弘法大師空海に因んで「弘法」の字が充てられるようになったのであろう。
 現在、浅間社は山麓から遷座した諏訪神社に合祀されている。妙見寺は廃寺となったが、観音堂はのこされ、安産子育ての観音様として参拝者が絶えない。乳房をかたどった縫いぐるみを奉納する習俗は、民俗学的にも注目されている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                  成瀬諏訪神社正面
 実はこの成瀬諏訪神社の所在地は事前にグーグルマップ等で確認していた。弘法山観世音から決まったルートがない山の中腹、ないしは山頂付近に鎮座していることも予想できた。となると、当然低山とはいえ、上り坂斜面への登頂参拝と予想でき、かなりの疲れが残ることも想像できた。そこで、まずは平地面の津久根八幡神社の参拝を終えてから、この社に赴こうと決めたわけである。
       
 弘法山観世音の標高が121m程で、弘法山頂が165mであるので、その標高差は僅か45m程であり、多少の疲れは覚悟していたはずであったが、思っていた以上に参道の山道は勾配がきつく(写真左)、また途中でいろは坂風なジグザグな山道もあり(同右)、正直登るのが大変であった。もうすぐ前期高齢者となる筆者には、自らの年齢を実感した低山道でもあり、無理は出来ないなあと痛切に感じた次第である。但し実際には5分程で登頂を終えている。
         
                             弘法山山頂の境内の様子
 この弘法山は古くは「高房山」と記されていて、妙顕寺(弘法山観世音を含む)は真言宗寺院であり、弘法大師空海に因んで「弘法」の字が充てられるようになったという。
『新編武蔵風土記稿 成瀬村』
・高房山
 小名高房の内なれば、直ちに名とせり、高さ五丁餘にて、四邊は松杉生ひ繁りて中腹に妙見寺あり夫より頂までは殊に險岨の山なり、頂には殘間の小祠を建、祠邊よりの眺望最打開けたり、先東の方は筑波の山を始として、比企・足立・江戸を打越て、遠く房總の山々を見渡し、南は八王子の邊までのあたりに見え、西は秩父ヵ嶽及比企郡笠山・乳首山など連り、北は三國峠より信州・越州の高山見えたり、
小名 鳥井戸
 昔村内高房山の殘間社の鳥井ありし地なれば、かくとなへりといひ、
・妙見寺
新義眞言宗、上野村醫王寺末、高房山と號す、小杉村天神社應永十二年の棟札の銘に、當社別當高房山禅海、開闢以来威光増益云々と見えたり、高房山は當寺のことならんには、舊き寺にて其頃は天神の別當たりしことしらる、本尊地藏を安ず、客殿の傍に鍾樓あり、明和元年鑄造の鐘をかけおけり、
觀音堂 如意輪觀音の坐像長二尺なるを安ず、弘法大師の彫刻なりと云、
        
                    拝 殿
 諏訪神社  越生町成瀬六七〇
 当社は鎮座地である成瀬のほぼ中央に位置する弘法山(一六六・一メートル)の山頂に奉斎されている。成瀬は古く鳴瀬とも書き、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵七党児玉党の鳴瀬氏がこの地に館を構えていたと伝えられる。
 創建の年代は詳でないが、古くは新倉に鎮座していたものを、建久年間に成瀬右近太郎有年により宮路へ遷座したと伝える。(新倉、宮地ともに現在も小字名として残っている)
 明治五年に村社となり、同三九年には宮路から弘法山の山頂へ遷座し、そこに祀ってあった無格社浅間神社を本殿内に合祀した。この遷座の理由は、村社である当社を祀るには、村外れの宮路より、村の中央にあって、どこからでも仰ぎ見られる弘法山の頂の方がふさわしいとされたためで、その際、本殿は旧浅間神社の参道を一直線に引き上げられたが、拝殿と社務所は解体して運んだという。
 祭神は建御名方命で、浅間神社の合祀により木花開耶姫命を併せ祀る。また、一間社流造りの本殿内には、建御名方命が軍旅に帯びていたと伝えられる石棒が納められている。
 なお、宮路に鎮座していた当時、境内には樹齢千年以上といわれていた欅の大木があり、神木とされていたが、境内を移すに当たって伐採され、今はない。
                                  「埼玉の神社」より引用


 津久根八幡神社の獅子舞は、享保年間(171636)に、成瀬村(現大字成瀬)の諏訪神社の祭礼で行われていた獅子舞を、津久根村の操り人形芝居と交換して始められたと伝えられている。演目は初庭「七五三掛り」、中庭「四幕抱き」、終庭「花掛り」の3庭が継承されていて、一つの獅子頭を一人で被り、三人一組で舞う一人立三頭獅子といい、大獅子と中獅子の雄獅子2頭が、雌獅子を奪い合うという筋立てで舞い踊る形式だ。
 ということは、津久根村の操り人形芝居と交換する前は、この成瀬諏訪神社の祭礼で行われていた獅子舞であったということになろう。
        
         拝殿の右側に祀られている境内社・神明社 稲荷社 熊野社

 児玉党鳴瀬氏は武蔵七党・児玉党の一派で、越生氏からの分家筋である。「武蔵七党系図」によると、武士団児玉党の一族越生氏は、成瀬、黒岩、岡崎の三氏を興したという。
 成瀬(鳴瀬)氏は、児玉党一派越生氏の初祖越生有行の孫で長男の有年が興した一族で、次男は黒岩有光・三男は岡崎有基と、それぞれに地名由来の苗字を名乗った。
『武蔵七党系図』
「越生有行―四郎有平―鳴瀬右近太郎有年―太郎左衛門尉経季―太郎経長、弟二郎泰綱」
『新編武蔵風土記稿 成瀬村』
「當村古は成瀬氏の領せし地にや、當國七黨系圖を閱るに、兒玉黨越生有行の三男四郎有平の子、鳴瀬右近太郎有年と云もの見ゆ、彼系圖には年代を記さゞれど法恩寺年譜錄に載たる承元二年有平の兄、有弘が左馬允有高に地頭職を譲りしよし有にても、大抵其頃の人たりしこと知らる」
        
   弘法山から南方向(越生・毛呂山町方面)、西方向(越生梅林方面)の眺めが見事である。
               この眺めは西方向(越生梅林方面)
        
           
弘法山から南方向(越生・毛呂山町方面)からの展望
        但し登頂で体力が続かず、今回の社参拝はここで終了している。



参考資料「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「埼玉の神社」「弘法山観世音 掲示板」等
 
 

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