荒川神社
荒 アラ 安羅の神を荒神社と称す。神無月(旧暦十月)に荒神様が馬に乗って出雲の社へ出かけるので絵馬を飾る伝承が東国にある。特に氷川社のある埼玉県南部に此の風習が残っている。また、荒は粗鋼で製鉄神となり、タタラのカマド神となる。奥州太平洋岸の鍛冶師・荒一族は此の荒神を祀っている。荒氏は、福島県相馬郡鹿島町三十戸、新地町百六戸、双葉郡浪江町二十四戸、原町市七十六戸、相馬市二百十三戸、宮城県伊具郡丸森町二十五戸、亘理郡山元町二十三戸、亘理町十二戸、遠田郡涌谷町十八戸あり。
安羅 アラ 阿羅とも記す。安羅は、安邪(あや)、安耶(あや)、漢(あや)とも称す。また、安那(あな)、穴(あな)と称し、阿那(あな)はアダとも称す。韓半島南部の古代は、北方の燕(えん)が遼東方面に進出するにおよんで、遼河・遼東半島方面の辰韓(しんかん)と、鴨緑江・清川方面の弁韓(べんかん)の韓族が南下移動を開始し、辰韓・弁韓族が漢江以南に辰国を建てる。しかし、馬韓(ばかん)族が南下移動を開始した為に、辰国は半島東南部の慶尚道地方に移動して定着し、おのおの辰韓国(後の新羅)、弁韓国(後の伽耶諸国)を建てる。馬韓族は漢江西南に目支国(もくし)を建てた。後の馬韓国(全羅北道益山付近。後の百済)である。目支国の君長は代々辰王を称し、辰韓・弁韓の三韓連盟体を組織する。魏志東夷伝に¬辰韓は馬韓の東に在り。弁辰韓・合せて二十四国、其の十二国は辰王に属す。辰王・常に馬韓の人を用ひて之をなす。世々相継ぐ。辰王自ら立って王たる事を得ず」と見ゆ。後世、高句麗に追われた夫余族の温祚(おんそ)部族の伯済(はくさい)が広州(京畿道)に土着し、目支国を征服して馬韓を支配したのが百済王国の土台となった。梁書・百済伝に¬邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。百済のクはオオ(大)、ダラは檐魯で、クダラとは¬大邑、大国」と称した。大ノ国は辰王の支配下である韓半島南部の三韓を云う。オオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)とも称した。此地の阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と云う。日本書紀・神代上に¬天照大神、素戔鳴尊と天安河を隔てて相対ひ」。また、¬時に八十万神、天安河辺に会合し」とあり。天安河辺(あまのやすのかわら)の、天は朝鮮国、安(あ、やす)は安羅国、河辺は人の集まる都を云う。また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした。また、出雲国意宇郡出雲郷は、大ノ国の渡来地にて、意宇(おう)郡と地名を付ける。出雲郷は安那迦耶(あだかや)と称し、イヅモとは読まない。大穴持命の子阿陀加夜努志多伎吉比売命を祭る阿陀加夜社の鎮座地なり。安羅(安那)の迦耶人である阿陀族は此の地より、武蔵国へ移住し、居住地を阿陀地(足立)と名付け、其の首領は武蔵国造となり、大宮氷川神社の祭神に大穴持命(大巳貴命)を奉祭す。大穴持命の別名は大ノ国の大ノ神である大国主命である。前述の如く、大ノ国の別名である安羅国は馬韓・弁韓・辰韓の三韓である韓半島南部全域を称す。また、大和国は日本国を指す場合と、奈良県のみを指す場合とがある。是と同じで、三韓全域の安羅国の内に安羅迦耶と云う小国がある。今の慶尚南道の咸安の地で、任那(みまな)国と呼ばれた地方である。垂仁天皇二年紀に¬意富加羅(おほから)の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、本土(もとのくに)に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ」と。姓氏録に¬芦屋村主、百済国意宝荷羅支王より出づるなり」と見ゆ。意宝荷羅(おほから)王の任那国は百済国の内なり。また、継体天皇六年紀に¬任那国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁、四県を百済に賜ふ」とあり。全羅南道栄山江の東に哆唎(たり)があり、西に牟婁(むろ)があり、娑陀(さだ)も近くにある。此の辺までの任那国は百済国と称す。また、応神天皇三十七年紀に¬阿智使主は都加使主を呉に遣し、縫工女(きぬぬいめ)を求めしむ。呉王、是に工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)、四婦女を与ふ」と。雄略天皇十二年紀に¬身狭村主青等、呉国使と共に、呉の献れる手末(たなすえ)の才伎(てひと、技術職人)、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛等を率いて、住吉津に泊る」と。継体天皇二十四年紀に¬久礼牟羅(くれむら)の城(さし)」と見ゆ。呉は中国南部にあった呉国では無く、慶尚北道達城郡苞山の求礼の地にあった国である。呉織、穴織、漢織は同国の人で安羅国の出身である。また、阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す。
荒川は通説では「流れの荒い川」という意味から「荒」が語源になっているというが真相はどうであろうか。荒川は奥秩父に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞を経て、寄居町で関東平野に出る。熊谷市久下で流路を南東に変え、さいたま、川越両市の間で入間川と合流し、戸田市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。その後隅田川と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ、延長169km、流域面積2940平方kmの関東第二の大河川であり、埼玉県民にとっていわば母なる川である。
上記の「荒」、「安羅」の説明を踏まえて考えてみると、荒川の本来の意味は「アラ族が信奉する聖なる川」ではなかったのではないだろうか。埼玉県に非常に多い「アライ」姓と似通った名前の「荒川」にはなにか共通点があるように思えるのだが。
所在地 深谷市荒川985
御祭神 天児屋根命、 倉稲魂神、 菅原道真
社 挌 旧村社
例 祭 10月14日 例大祭 (7月14日 境内社八坂神社、八坂祭)
荒川神社は関越自動車道・花園ICを出てすぐの花園橋北信号で右折。300m先の寿楽院手前を右折すると、左手に鎮座している。大里郡神社史には、もと大明神社と呼ばれ、大里郡花園村大字荒川字寺ノ脇に鎮座していたという。
荒川神社正面より撮影
この社の一の鳥居前には寄居町の波羅伊門神社や男衾の小被神社も以前はこんな造りだったが、鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっている社はそれほど多くない。同じ一族の共通した建築方法だろうか。
拝 殿
本 殿
明治43年、村内数社を字川端の地へ移転合祀して、土地の名により荒川神社とした。その地にあった天満天神社は境内神社となった.
この天満天神社の御神体は、衣冠束帯の菅公座像という。もとは甲府城主 武田家に代々祭られたもので、武田信玄の自作ともいう。天正年間(1573~92)の天目山戦役の折り、武田勝頼から侍臣小宮山内膳正友信に賜わったもので、友信の弟の又七郎久太夫又一らが当所に落居し、天満天神社として祀ったものという。
荒川神社は大正4年に字寺ノ脇の現境内へ移転され、同6年に天満天神社は本殿へ合祀された。当神社の通称を「天神様」ともいう。
社殿左側にある境内社 山ノ神社 社殿右側にある八坂神社
さて冒頭「荒」や「安羅」について「埼玉苗字辞典」の記述を紹介した。「荒」の項では「荒」とは安羅の荒神であり、また古代鍛冶集団である製鉄神タタラのカマド神でもあるという。そして「安羅」の項では、古代朝鮮半島の百済国の別名「大ノ国」の「大」をオオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)ともいい、渡来してから阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と称した。
また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした(安羅国の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした為)。そして阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す(現在でも「熊谷」姓は岩手、宮城両県に多い)。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す、と記されている。
荒井 アライ 安羅国の渡来人にて、荒(あら)を二字の制により荒井とす。此の氏は武蔵国に多く存し、奥州に少ない。
新井 アライ 新(あら)は、安羅(あら)ノ国の渡来人安部族にて、二字の制により、新井と記す。此の氏は埼玉県第一位の大姓なり。安部族は、奥州にては阿部氏及び熊谷氏を名乗り、新井氏は殆ど無し。
荒木 アラキ 新羅(しら)をシラギ、百済を百済木、邑楽を大楽木と称するように、安羅国(後の百済)の安羅(あら)をアラキと称す。安羅の渡来集団は、山陰・山陽地方及び武蔵、出羽方面に移住す。
新木 アラキ 荒木と同じにて、安羅(あらき)の佳字なり。新木はイマキとも称す。
また氷川神社が鎮座する大宮地方一帯は嘗て「足立郡」と呼ばれていた。この足立郡の由来もこの「安羅」からきているという。
足立 アダチ 此の氏は、豊後国及び出雲・但馬・丹波の山陰地方、また美濃国に多く存す。平安時代の貴族達は百済僧を豊国僧と呼んでいた。豊ノ国から渡来した人々の居住地を豊国(福岡、大分の両県)と称す。神武東征以前の神代の時代に渡来する。大ノ国(後の百済)のオオ・オウ・オホの原語はウと称し、鵜のことをアタと云う。大ノ国は安羅(あら)とも称し、其の渡来集団を安部・阿部と称した。豊前国企救郡足立村(福岡県小倉北区)、大和国宇陀郡足立村(榛原村大字足立)は阿部集団の阿陀族が渡来土着し地名となる。また、近江国浅井郡大井郷(和名抄に於保井と註す)あり、今の虎姫町なり。古代は於保を鵜と呼び、阿陀と云い、大井郷付近を別名足立郡大井郷と称す。当国佐々木氏系図に¬西条貞成(観応勲功・給足立郡大井江地頭)」とあり。また、大ノ国の渡来地を意宇(オウ)と称す、出雲国意宇郡出雲郷の出雲郷は阿陀迦耶(アダカヤ)と称し、イヅモとは読まない。此の地に阿陀加夜社あり、迦耶人の阿陀族の氏神なり。此の地方の出雲族阿陀集団は神武東征に追われ、武蔵国へ移住して、其の住地を足立郡と称した。其の一部は陸奥国安達郡に土着する。日本霊異記下巻七に¬賊地(あたち)に毛人(えみし)を打ちに遣さる」と見え、大和朝廷は東国の阿陀族を蔑視していた。
「新」は「アタラシ」と読むと同時に「イマ」と読むことができる。前述「新木」を「イマキ」と解釈すると、児玉郡上里町忍保に鎮座する今城青坂稲実池上神社の真の素顔もおぼろげながら見えてくるような気がするが、長くなりそうなのでこのことはいずれ別項を設けて述べたいと思う。