堀切駒形神社
武蔵国には「石川牧」(東京都)、「小川牧」(東京都)、「由比牧」(東京都)「立野牧」(東京都)などの官牧のほか、「秩父牧」「小野牧」「石田牧」「阿久原牧」の名が見え、他に文献に現れない小規模な牧や私的な牧があったと考えられている。
秩父には10世紀に畿内政権が必要とする馬を生産する「秩父牧」が置かれている。この牧は、秩父郡から児玉郡の一部にまたがる広大な地域に所在していたと推定される牧である。延喜3年(903)貢馬の記録が初見。皇室の料馬を供給する勅旨牧で、年貢馬は20疋、貢馬日は8月13日と定められていた。天暦5年(951)には父馬2疋が下賜されている。
秩父市・堀切地域には、「駒形社」が鎮座しているが、この社名は、牧馬と関係のあり、地形も小丘や台地が連続して牧場に相応しい地勢を示しているといわれている。
・所在地 埼玉県秩父市堀切368
・ご祭神 誉田別命 神功皇后 高良玉垂命
・社 格 旧堀切村鎮守
・例祭等 例祭 3月19日 秋祭り 10月8日
小柱諏訪大神社から一旦南下し、埼玉県道43号皆野荒川線と交わる丁字路を右折、県道を南西方向に進行し『新編武蔵風土記稿 堀切村』に載っている赤平川支流の澤川に架かる長坂橋を渡り350m程進んだ先にある丁字路を右折し、暫く北上すると進行方向右手にこんもりとした堀切駒形神社の社叢林と鳥居が見えてくる。
堀切駒形神社遠景
『日本歴史地名大系 』「堀切村」の解説
太田村の北東にあり、東は小柱村、南は蒔田村・品沢村。北端は赤平川を境に大淵村(現皆野町)。田園簿には高四六石余・此永九貫三八七文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高六八石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復す。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領となる(「風土記稿」「郡村誌」など)。
「埼玉の神社」によると、当所は江戸期には「堀切村」と呼ばれ、一村を成していたが、明治期には太田村に属した。更に太平洋戦争中に太田・三沢・日野沢・国神と合併し「美野町」と号し、その大字となっていたが、数年にして各大字が不和となり、旧に復し、昭和20年代秩父市に合併、現在に至っているという。
鳥居正面から境内を撮影
拝 殿
駒形神社 埼玉県秩父市堀切三六八
社伝によると「冷泉天皇の代、奥州安倍貞任征討の折、源頼義親子膽沢郡延喜式内駒形神社に誓い誓書を捧げ勝利有りて、臣秩父十郎武綱当村へ右社分霊を勧請す、其後天正三年武田信玄当郡に襲来し処々に放火す、此折当社も消失、里人これを嘆いて宮殿を再営し、奥州駒形神社より遷座す、天正一〇年鉢形北条氏崇敬厚く太刀一口を献上す」という。
当地は秩父駒の産地といわれ、昭和初期に酪農が普及するまではどこの家にも馬を飼っており、台所脇に馬屋を設け、人馬共一つの棟に住んでいた。社前に二つの小山(念仏宇根・ねんぶつおね)・炭釜(すみがま)があるが、この小山の西側には馬捨て馬があったという。現に鳥居前にある二群の萱(かや)は「駒形様の萱」と呼ばれ、神馬の秣(まぐさ)ゆえに刈ることが禁じられている。社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があり、神馬の水飲み場・足洗い場とされている。内陣には木製彩色の神馬一対が奉安され、拝殿には石猿一対が飾られている。このほか、村内通行の危険な所数カ所には馬頭尊が祀られている。当社の創建は、このようなところから推察すべきかと思われる。また「駒形」が「高麗方」と通じるところから、高麗王との関係を説くものもある。
祭神は、誉田別命・神功皇后・高良玉垂命の三柱である。
「埼玉の神社」より引用
拝殿手前で向かって左側に鎮座する境内石祠群
左側より大黒・八坂社・稲荷社・三島社・熊野社・諏訪社
「埼玉の神社」では、社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があるとの
ことであったが、草木で覆われている状態では池があるかどうかも不明。
社殿の右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
注連縄等はないが、御神木であっても申し分ない程の貫禄ある姿
当所は古くから「水旱の地」といわれ、「観天望気」が広く行われ、今も「岳(たけ)の権現様(武甲山)に霧が掛かると、二・三日中に必ず雨が降る」などといわれている。このため、嘗ては雨乞いが盛んに行われていた。まず梵天を神社の神水・榧(かや)に立てる。次いで武甲山・城峯山、遠くは赤城山・榛名山とその年に合わせて方向を定めて代参し水を頂く。これは若者の役目で、一番から三番まで班を決め、リレー式に水を受け継いで神社まで運ぶ。水が村に着くと、神社の境内に円を画くように撒いて雨を待つ。この間は、雨が降るまで仕事にもならず村人は幾日も酒を飲んで過ごしたという。
因みに「観天望気」とは、自然現象や生物の行動の様子などから天気の変化を予測すること。また広義には経験則をもとに一定の気象条件と結論(天候の変化の予測)の関係を述べたことわざのような伝承のことをいう。 昔から漁師、船員などが経験的に体得し使ってきた。
(例)「太陽や月に輪(暈)がかかると雨か曇り」
「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
この観天望気は科学的な観測に基づく公式な天気予報に代替できるものではないが、天気の変化の参考になるものもある。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「越谷市デジタルアーカイブス」
「Wikipedia」等