古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

太田熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県秩父市太田1320
              
・ご祭神 熊野権現(伊弉諾尊 伊弉册尊 天照大神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 2月17日 例大祭(春祭り) 43
                   新嘗祭 11月24日  
 秩父鉄道皆野駅から埼玉県道43号皆野荒川線に合流し1㎞程西行し、荒川を越えた「皆野橋」交差点を左折する。その後、すぐ先にある「小柱」交差点を右折、周囲は山間の勾配があまりない田畑風景が広がる長閑な風景を愛でながら、赤平川に沿った上記県道を西行2.5㎞程進んだ十字路を右折し、暫く進むと、太田熊野神社の鳥居が見えてくる。
 
  まず社の参拝前に気になっていたものを紹介。太田熊野神社の鳥居のすぐ東側にポツンとある「旧大田村高札場」(写真左側。設置されている案内板は右側)。
 この高札場は、旧小鹿野街道に面し、切妻造、瓦葺で、高札場としては珍しく、装飾の多い豊かな形式で、当時この地方の平和が偲ばれる高札場であるという。
 石積み基壇上にあり。破風に懸魚を付け、腕木には装飾彫刻を付するなど高札場としては立派な構造である。
 県指定史跡 旧大田村高札場
 徳川初期の頃人々に衆知する一方法として使われたものが高札場である。
 重要な事項を掲示し、その徹底をはかったもので、後になっても続き街道筋や村々に必らず存在したものとしては、現在きわめて類が少ないものである
 高札の始めは、慶長八年三月幕府が、関東郷内に掲文し一般住民の村領主、代官関係、年貢訴訟等の事を知らせたものである。
 寛永十年七月人売買、又は一円停止、条々より高札は時折り出されたが、県内に残る制礼は正徳元年五月の親子、兄弟、茶々、駄賃及び人足、荷物、切支丹禁制等、享保六年二月鉄砲取締り、明和七年四月徒党取締り、天明八年九月浪人取締り等が主たるもので、無年貢地とし村の高札に諸設備等とも村負担でおこなったものである。
 この高札場は、旧小鹿野街道に面し、切妻作り瓦葺で、装飾の多い豊かな形式で、当時地方の技法を充分生かし、いやみのないものである。
昭和四十二年三月二十八日県指定(以下略)
                                      案内版より引用

        
                  「旧大田村高札場」からすぐ西側にある社の社号標柱
『日本歴史地名大系 』「太田村」の解説
伊古田(いこた)村の北に位置し、北東は堀切村、南は品沢村など。北は西流する赤平川を境に野巻村(現皆野町)、南西は同川を隔てて久長(ひさなが 旧吉田町)村など。地内には縄文時代中期、古墳時代後期、奈良・平安時代の集落跡がある。また太田条里遺跡があり、秩父郡丹田(にた)郷(和名抄)を当地に比定する説もある。地名の起りは一円に田が多く、多田の意(秩父志)、郡中では田の多いところであるから(増補秩父風土記)などとされる。

 秩父は昔から米作に向かない土地柄であった。山間で平地が少ないこともあるが、秩父盆地の中は荒川の流れがつくった河成段丘の段丘面の上に立地し、ここは嘗ての川原の堆積物である小石が多くて水が浸透してしまい、さらに傾斜地も多かったため、限られた場所でしか水耕ができなかった。
 米が作れない土地では収穫高の多い果樹や茶の生産を行うところもあるが、秩父は寒冷地で適さない。そこで植えられたのは「桑」である。桑は、湿地を嫌い、寒冷地や山地の痩せ地でもよく育つ植物で、蚕のエサとなる。蚕がつくる繭は、絹糸の原料で、絹織物は価値も高く、江戸時代以降、金納による年貢を担うための重要な産業になる。秩父で養蚕が盛んになったのは必然のことだった。
        
                               
太田熊野神社正面両部鳥居
 明治時代の地図をみると、秩父盆地の中は田んぼが少なく畑ばかりで、江戸時代、米の取れないこの地方では年貢を米で納めることができず、作物などをお金に換算して納める「金納」であった。
 このように水耕に適しない土壌が主である秩父盆地の中にあって蒔田地域と太田地域では、川が浅いところを流れていた。元々この地には荒川や赤平川の支流が流れていたが、本流が深いところを流れるようになると上流が本流から切断され、その後浸食を受けずに済んだという。上流から砂利が流れこまなくなったため泥質の土地となり、川が浅いので水利もよく、谷をせき止めてため池がつくられたこともあり、蒔田と太田はその地名のとおり古くから米どころであった。
        
        社号標柱から境内まで150m程の長い参道の先に社殿は鎮座する。
              赤平川を背にして社は建っている。
        
                    拝 殿
 熊野神社 秩父市太田一三二〇(太田字門脇)
 太田は、荒川支流赤平川の右岸に開ける秩父地方最大の穀倉地帯で、太田千枚田とも呼ばれ、水田が広がっている。地内には奈良期の条里制跡があり、古くから開かれている所である。
『風土記稿』に「熊野社 小名内出の鎮守とす、例祭は二月十五日、村民持」と載せている。また、社記には「文化七年十一月三日当所富田右門芳功、同吉衛門吉忠の両名により、紀伊国熊野権現を勧請す」とある。これを裏付けるものとして、社蔵の旧本殿棟札がある。
 天下泰平国家安穏大小氏子家門繁栄子孫長久、武蔵國秩父郡矢幡庄太田村鎮守、奉正遷宮熊野三社大権現伊弉諾尊伊弉冉尊天照大神、一座宮殿常磐堅磐鎮護攸・文化七(午\庚)歳十一月吉日、祭主富田右門芳功倅富田吉衛門吉忠〔裏面〕上棟信心諸願成就攸・同國榛澤郡深谷宿・棟梁坂本丈助
 富田家については、『風土記稿』に「寛政四年御代官萩原弥五兵衛支配せし頃、此地を割て伊奈小三郎が家従、富田吉右衛門が給地に給ひ云々」とある。
 明治五年に村社となり、同四一年西原の柴宮社、富田の諏訪社、山際の秋葉社、西田戸の三島社、田中の諏訪社、大ノ谷の天神社、中道の八幡社、蛭ヶ沢の石神位社を合祀し、同四三年に本殿を再建した。
 祀職は現在、御先達様と呼ばれる船崎家が奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    拝殿上部に掲げてある扁額            社殿の左側にある土蔵
        
                   社殿右側奥に祀られている境内社、及び石祠
 境内社に関しては、左より稲荷社・諏訪社・秋葉社・琴平社・愛宕社。石祠三基の詳細は不明。
       
           社殿右側に聳え立つけやきのご神木(写真左・右)
 市指定天然記念物 熊野神社のけやき
 昭和四十七年四月六日指定
 熊野神社は、文化七年十一月紀伊国熊野権現より分身祭祀したといわれ、このときすでにこのけやきは、神域の象徴であったといわれます。
 四方に伸びる枝張りの構成もみごとで、目どおり六米四十糎、樹高三十五米、枝張り二十五米もあり、地表十米附近より六本の枝にわかれています。
 枝そのものも樹幹の相をみせて、樹勢、樹肌もよく、旺盛な感じをもつけやきで、樹令約六〇〇年を推定することができます。
 古くから、干魃の際は氏子総出で、「ぼんぜん」と称する幣を、樹上にゆわえ雨乞いをしたので、土地の人々は、雨乞いのけやきとも呼んでおります。
 秩父市教育委員会 熊野神社
                                      案内板より引用

『新編武蔵風土記稿 太田村』には、「東西凡一里許、南北凡十二町に餘れり、村内東西北の三方平坦にして、南の方に高からぬ土山の僅に存するのみ、土人の伝しに郡中にて平坦なる村は、僅に二三ヶ村なりと伝へるが、卽ち此村も其内なりとぞ、故に水陸の田多く、されども陸田よりも水田は少なし(中略)田用水は上水なくて水をつゝみ、或は溜井を用ひけるゆへ旱損の患あり」と記載され、近年までは雨乞いが盛んに行われていた土地柄でもあったようだ。
 更にこのご神木には、雨乞いの場に梵天を立てたという。この梵天とは、祭礼等に用いられる、大型の御幣で、棒の先端に球状の装飾物を着けた物ではないかと考えられる。
        
             ご神木の手前に設置されている案内板
市指定天然記念物 熊野神社のけやき」と共に「市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽」も掲示されている。「熊野神社のけやき」は上段を参照。
「市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽」
 昭和三十六年九月二十七日指定
 この神楽は明治十年二月秩父神社社家権代講義丹後守が、土地の風間巳之吉、富田玄内、富田馬次郎、武島喜内、富田金三郎、富田和十郎、富田倉次郎、青山巳弥吉、斉藤清五郎、鈴木健次郎の他各氏に教授したものといわれます。
 舞の形式は、里神楽岩戸神楽の系譜をひく秩父神社の神楽とほぼ同形で、舞の形式、所作をみても丹後守の直伝であることが立証されます。
 奏楽は総じて、秩父神社のものより大まかなところもありますが、伝承時の旧形態を忠実にとどめています。
 丹後守の教傳書による座は二十九座ありますが、野見宿弥の座、高千穂峰の座、オノコロ島の座、三韓征伐の座などがあることは、秩父神社の神楽と異なっています。これは荒川村白久系統や他の流派の曲目が村と村との相互関係で混入したものと思われます。
                                      案内板より引用

 神楽口伝奥書に「明治十年二月大宮権代講義丹後守殿教導伝書也」とあり、秩父神社神楽の系統であることが知られている。この神楽は秩父神社の神楽が一時中絶した時、その代わりに各地に出張し、今日でも、野坂町の秋葉神社、品沢の諏訪神社、伊古田の五所神社、野巻の椋神社などの祭礼に頼まれて奉仕している。
「埼玉の神社」によると、本来の神楽の座数は36座であったというが、現在では、奉幣に始まり、18座が舞われているという。
        
                         社殿から参道方向を撮影。
             参道の遥か延長線上には武甲山が見える。



太田地域は、東西一里許(4㎞程)・南北十二町餘(1.3㎞程)の広大な地域であったので、字毎に社が鎮座していた。故に今でも熊野神社の近隣には多くの社が祀られている。
【太田八幡神社】
        
              ・所在地 埼玉県秩父市太田14581
              ・社 格 旧太田村鎮守
              ・ご祭神・例祭等 不明
         太田熊野神社から東側300m程の近距離に鎮座している。
    長閑な田畑風景の中にこんもりとした社叢林があり、その中に社は鎮座している。
      境内西側にはしっかりとした駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
   太田八幡神社 駐車スペースから撮影          程よく手入れされている境内
 この社は「埼玉の神社」にも掲載されていない。創建時期等も不明。但し『新編武蔵風土記稿 太田村』において、「八幡社 村の鎭守、例祭八月十五日、村内龍藏寺持、」との記載があり、嘗ては太田村の鎮守社であったことがうかがえる。
       
                  社殿からの風景

【柴宮神社】
 太田熊野神社を南下し、一旦埼玉県道43号皆野荒川線に合流後、西方向に600m程進むと、県道沿いで進行方向右手に鎮座している。東側に隣接しているホームセンターの駐車場をお借りしてから参拝を行う。
        
              ・所在地 埼玉県秩父市太田395近辺
              ・ご祭神 茅姫命
              ・社 格 旧太田村田ノ原鎮守
        この社も「埼玉の神社」にも掲載されていない。創建時期等も不明。
『新編武蔵風土記稿 太田村』において、「芝宮社 小名田ノ原の鎭守、祭神茅姫命を祀ると云、例祭三月十五日、村民持、下同」との記載がある。
 
     こじんまりとした拝殿         拝殿には「柴宮神社」と記された扁額あり

 柴宮神社のご祭神は「茅姫命(かやのひめ)」で、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
 神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱の神を生んだ。
 神名の「カヤ」は萱のことである。
 萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
 別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味であるという。


太田石神迸神社
 太田熊野神社の南側にある「秩父市立太田小学校」の東側斜面上に鎮座している。周辺には適当な駐車スペースはないため、路駐にて急ぎ参拝。
        
                           斜面上に鎮座する太田石神迸神社
        
                                 拝 殿
       この社も「埼玉の神社」にも掲載されていなく、創建時期等も不明。
 それなりに趣きのある社であるのにも関わらず、『新編武蔵風土記稿』にも「石山住社」しか記載がない。「石山」「石神」と頭につく社であるので、ご祭神は「大山津見神(おおやまつみのかみ)」と推測されるのだが、調べても何も分からない。
 それより、この社の名称自体読めない。だれか分かる方お教え頂きたい。

  太田石神迸神社の左隣に祀られている    一番左側に祀られている境内社・稲荷社
       境内社。詳細不明。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ジオパーク秩父HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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