小柱諏訪大神社
・所在地 埼玉県秩父市小柱23
・ご祭神 建御名方神
・社 格 旧小柱村鎮守
・例祭等 例祭(春祭り) 4月5日 秋祭り 10月5日
皆野町・大淵熊野神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南西方向に1㎞程進む。荒川とその支流である赤平川の合流地点に架かる郷平橋を過ぎると、進行方向右側が河川の浸食によりできた段丘崖面となっていて、その頂上部に小柱諏訪大神社が僅かに見えてくる。
但し県道から直接社に通じる道路はなく、一旦南下して「小柱」交差点を右折、その後すぐ先にある丁字路をまた右折し、道幅の狭い緩やかな上り坂の道を暫く直進する。その後、目の前には長閑な田畑風景が広がる河岸段丘特有の段丘面に到着し、その道路右側端に小柱諏訪大神社の鳥居が見えてくる。
因みに「小柱」と書いて「おばしら」と読む。「小柱」と言う地域名は、諏訪大社の神事である「御柱(おんばしら)祭」からきていると伝えられているという。
また当社は信州・諏訪大社の御分社であり、大社には御分社が多く、明治時代の調査では、全国で12,000余社とされている。分社の社名は「諏訪神社」「諏訪社」が多く当社のように「大神社」と讃えているのは秩父郡内では二社で全国でも11社だけであるようだ。
小柱諏訪大神社 一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「小柱村」の解説
堀切(ほりきり)村の東にあり、東は荒川を境に皆野村(現皆野町)、北は赤平川を境に大淵(おおふち)村(現同上)。田園簿では高一二九石余・此永二五貫八六二文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高一七一石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復した。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領(「風土記稿」「郡村誌」など)。
河岸段丘により形成される段丘面に鎮座する社。
現地で実見すると、平坦部の広がりをより感じることができる。
因みに写真右側は崖となっていて、バリケード等の安全面は考慮されていないようだ。
真っ直ぐな参道途中に立つ二の鳥居
小柱諏訪大神社は、荒川と赤平川が合流する地点の南側の河岸段丘上先端部に鎮座している。西側には篠葉沢、南東には蒔田川が流れ南側には南北に細長い丘陵地帯で囲まれるという立地条件で、自然の要害に囲まれた要衝地であることが、地形上から見てもよくわかる。
それに対して、社の周囲はなだらかな段丘面が広がり、現在では大半は畑や宅地となっているのだが、この地から周囲を見回せ、特に北側・東側が一望できる地形となっている。
拝殿覆屋
諏訪大神社 埼玉県秩父市小柱二三(小柱字合川)
当地は、東に荒川、北は赤平川を境としている。この両河川は村の北端で合流しており、当社はその合流地点に鎮座している。
社記によると、創立年代は不明であるが、村の開発にあたり、氏神として信州の諏訪大社の分霊を祀ったものと思われる。諏訪大社では七年に一度御柱を立てているが、小柱の地名はこの神事に由来するという。平良文を祖とする秩父別当武網は深く当社を崇敬し、後三年の役の出陣の際には戦勝を祈願し、功あって源義家から白旗一流を賜ったことから、これを諏訪大明神の御利益と弓矢八幡の加護によるものと信じて境内に八幡宮を造営し、白旗一流と三本の傘紋印の乗鞍を奉納した。以後秩父氏累代の崇敬をうけ、秩父庄司重忠が諏訪八幡両社に武運長久を祈願した折の駒繋松、御手洗井戸等の伝説が今に残っている。
『風土記稿』小柱村の項には「諏訪社、例祭七月廿七日、村中の鎮守なり、村持」とある。明治四二年には、地内の字秋葉から秋葉社及び同境内社の竜神社を合祀し、現社号の諏訪大神社に改めたが、この後、秋葉社は旧地である秋葉山の山頂に戻された。
現在の祀職は、金子安英が務めるが、江戸期には、慶安三年を初めとする吉田家から裁許状九通を所有する半藤家が代々努めていた。
「埼玉の神社」より引用
境内に設置されている案内板
お諏訪様の神使は白蛇といわれ、神社境内で蛇を見ても決して殺してはならないとされている。また、言い伝えに「往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたが、地鎮祭の竜柱に白蛇が巻き付いたため中止となった」とか「白蛇が通る道は決まっていて、通ると必ず神社からその南西にあたる金四塚(『風土記稿』には「金四社」とある)にかけて草は倒れ伏して枯れてしまう」等ある。
社殿の奥である北側は崖面となっていて、赤平川が東西方向に流れている風景を見ることができる(写真左)。また東側も眼下の荒川や集落を見渡す事ができる(同右)。言い伝えではあるが、往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたことも、この地を実際にきてみると、なるほどと納得してしまう絶好の場所である。因みに社殿北側にはしっかりとネットフェンスが設置されている。
社殿からの一風景
当地では、昭和初年まで、日照りが続くと雨乞いが行われていた。この行事は「ハマヤ」と呼ばれる村の共有林から松を切り出すことから始まる。この松の木は神社境内まで引かれ、手作りの竜をからませる。竜の頭は竹で編んだもの、胴体は蛇籠に新聞紙を貼り、色を塗った精巧なものである。
なお、この頭には釜山神社から受けた水の入った竹筒を麻組で下げる。宮司の祈祷後、これを笠鉾の台車に載せ、囃子連が同乗して村内を曳き回す。秩父囃子の演奏の台詞に、音頭取りの「フップヤマノクロクモ、アメダンベエ、リュウゴウナア」の掛け声に合わせて全員で雨を呼ぶ雨乞い歌が唱えられる。願いが叶って雨が降ると、耕地ごとにお湿り祝いを催した。
この雨乞い行事には、本社の諏訪大社の神事である御柱祭りを彷彿させるところがあり、諏訪信仰を考える上で興味深いものであるという。
【蒔田諏訪神社】
小柱諏訪大神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南下し、秩父市小柱地域と蒔田地域の境に流れている荒川支流である蒔田川を過ぎたすぐ先に諏訪神社は鎮座している。
・所在地 埼玉県秩父市蒔田3353
・ご祭神 建御名方神(推定)
・社格、例祭等 不明
所在地以外、創立年代や社格、例祭等不明。ご祭神は、諏訪神社という事で、建御名方神と記したが、あくまで推定。
拝殿覆屋 拝殿脇に祀られている境内社は詳細不明。
小柱諏訪大神社もそうであったのだが、この社には壁一面に
奉納札等がびっしりと張り付けてある。地域の風習なのであろうか。
『新編武蔵風土記稿 蒔田村』には「諏訪社 村持」としか載せられていない。但し、社に隣接している建物の名前が「森公会堂」ということで、この「森」地名は『風土記稿』にも同名が載っていて、この地が旧蒔田村字森ということは間違いないであろうと思われる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等