田村神社
・所在地 埼玉県秩父市田村977
・ご祭神 天神七柱と地神五柱の尊 禰都波能売神
・社 格
・例祭等 元旦祭 1月1日 祈年祭 2月建国記念日前の日曜日
例大祭 4月第2日曜日 秋祭り 10月第1日曜日
大祓い 12月23日
上蒔田椋神社から国道299号線を1㎞程西行し、「大寶山圓福寺」の社号標柱が見える丁字路を左折、200m先にある丁字路をまた左折する。「天龍橋」を越えた正面には上記寺院の立派な山門があるのだが、寺院の駐車場付近から右側を見ると、小高い山と共に一対の幟旗ポールが小さいながらも見えてくる。駐車場の手前にある路地を山方向に進路をとると、道幅の狭い道路の先に田村神社の正面鳥居が見えてくる。
大寶山圓福寺正面
正面に見えるのは大寶山圓福禅寺山門で、平成18年3月28日に市指定有形文化財(建造物)に指定されている。この寺は、応安6年(1373)創建と伝えられ、秩父を代表する古刹である。元禄8年(1695)の火災の後、山門は享保16年(1731)に再建された。
山門の規模は、正面7.9m、側面5m、高さ11.9mで、両側面に反りを持たせた梁(はり)の下に間柱(まばしら)を立て、横の力に強さを持たせている。また、天明7年(1787)、高辻中納言菅原胤長(たねなが)の「東關禪林」(とうかんぜんりん)の勅額が掲げられるという。
大寶山圓福寺の駐車場手前の路地から社方向を撮影
社は、鳥居正面入り口も国道から奥に入った場所にあり、更に小高い山の中腹で、鬱蒼とした森の中に鎮座している。目立つことなく、ひっそりと地元住民を見守って来たという第一印象。
田村神社正面鳥居
周辺には社号標柱もなく、よく見ると鳥居の社号額には「諏訪神社」と表記されている。
正面の鳥居に一礼し、参拝を開始する。山の中腹に社は鎮座しているので山道を登ることは覚悟していた(写真左)ので、このジグザグに曲がりながらの石段を登ることは想定範囲内だが(同右)、それでも息は上がる。
ジグザグの石段を登ると二の鳥居に到着 二の鳥居から参道は真っ直ぐ社殿に向かう
『日本歴史地名大系』 「田村郷」の解説
寺尾村の南西方丘陵地にあり、北東は蒔田村、北は品沢村、南西は長留村(現小鹿野町)。丘陵谷間を流れる蒔田川の上流域に田畑が開ける。寺尾村とは小鹿坂(おがさか)峠越で結ばれる。地名の起りは往古、田村権守という者が住していたためと伝える(風土記稿)。田園簿には高二五三石余・五〇貫七六八文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高三〇一石余、享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合取調書によると旗本牧野領。
『新編武蔵風土記稿 田村郷』に「村名の起こり往古田村權守と云へるもの、此所に居住せしより唱へけるにや、今尚邸跡あり、又禪宗にて白崖一派の道場と稱するあり、末に載す、是を田村派と云へり、郷の唱村の字の重なるを避ての故ならんか、御打入以前は北條家の分國なるよし、されば田村權守の領せし地なるや」「屋敷跡 圓福寺の前なる大門平にあり、土人相傳へて田村權守なるもの住居せし所なりと云ふ、事跡詳かならず」と記されていて、田村の村名由来の一説に紹介されている「田村權守」という人物の正体が現在でもハッキリと分かっていないようだ。
ひっそりと静まり返った境内
鳥居正面附近の目立たず、ひっそりと佇むという第一印象とうって変わって、この境内一帯には、鬱蒼とした木々に囲まれ神聖な雰囲気を醸し出していて、我々一般市民が住む世界とは一線を画しているような別次元の空間がそこにある。まさに「隠れ家的な社」。
参道左側に設置されている案内板 右側には手水舎がある。
田村神社 御由緒 秩父市田村九七七
◇拝殿の格天井には氏子の家紋が飾られている。
鎮座地田村は、荒川の支流である薪田川を遡り左岸の丘陵部にあり秩父市の中央部と小鹿野町の間に開ける農業地帯である。地名の起こりを『風土記稿』では「村名の起り往古田村権守と云へるもの、此処に居住せしより唱えけるにや今尚邸跡あり」とし、『秩父志』では「田村郷ハ武光庄ニ属ス、此村名義文字ノ如ク往古ヨリ田多卜云意ヨリ田村ト称へシナルベシ」としている。
当社は集落の南に位置する諏訪山の中腹にあり、社記は「文安三年(一四四六)勧請」としているが、口碑には「天文年中(一五三二~一五五五)の創立」ともいう。
明治四十二年(一九〇九)二月、合計三十二社を字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基き田村神社と改称した。
なお、本殿內に安置されている石棒は、天明二年(一七八二)八月に氏子の宮田喜兵衛が地內から発掘したものである。
◇御祭神
・天神七柱と地神五柱の尊
・禰都波能売神(以下略)
案内板より引用
田村神社の御祭神の一柱である「禰都波能売神」は「みづはのめのかみ」と読み、『古事記』では同名、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命等とも表記され、淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
拝 殿
明治42年2月、諏訪神社社掌宮下正作は『合祀願』の中で、字諏訪山之社・森下八社・鬼ヶ沢五社・駒沢六社・水神沢五社・諏訪平五社の計32社の社名をあげ、「右神社義は崇敬上設備の完全期し度候に付同町字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基づき田村神社と改称し度跡建物の義は売却の上保存資金として蓄積致し度候間此段奉願上候」と記している。この時、社名は直ちに決定をみたが、村社をどこにするかは話し合いがつかず、入札で当社に決まった。合祀後は、社前に合祀社名を掲げるなど神職は気をつかったが、各耕地では、残ったお堂などで従来からの日待が続けられ、問題は起こらなかったという。
拝殿に掲げてある扁額 社殿の右側に祀られている境内社・八坂社
社殿から二の鳥居を望む。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
「Wikipedia」「境内案内板」等