伊古田五所神社
総本社といえる秩父市下吉田地域に鎮座する椋神社の旧社格は県社。元は井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり現在の呼称になったという。
現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
・椋神社(埼玉県秩父市下吉田)
・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町皆野)
・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町野巻)
・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
伊古田地域に鎮座する五所神社は、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名を称していて、秩父市下吉田の椋神社を分霊したと言われている。
・所在地 埼玉県秩父市伊古田598
・ご祭神 猿田彦命 経津主命 武甕槌命 天児屋根命 姫大神
・社 格 旧伊古田村鎮守
・例祭等 例大祭(春祭り) 4月4日 秋祭り 9月27日
大祓 12月大晦
太田熊野神社の南側で東西に流れる道路を西行し、「太田」交差点を左折、埼玉県道270号吉田久長秩父線に合流後、1㎞程進んだ先のY字路を右方向に進路をとる。荒川水系赤平川の支流である長森川に沿って続く道路を900m程進むと、進行方向左手に伊古田五所神社の赤い鳥居が見えてくる。
道路沿いに鎮座する伊古田五所神社
『日本歴史地名大系 』「伊古田村」の解説
品沢村の西方、赤平川支流の長森川流域に開ける。西は下吉田村(現吉田町)、北は太田村。田園簿には井古田村とみえ、高一二七石余・二五貫四五四文とある。田園簿では幕府領、同領のまま幕末に至る。「風土記稿」によると家数五〇、男は農業の合間に山で薪をとり、女は白絹・木綿を織っていた。産物は絹・煙草・大豆・干柿などで、「郡村誌」は特産として繭・生糸などをあげる。鎮守は御所明神社、ほか七社を祀り、曹洞宗大林寺ほか二寺・三堂があった(風土記稿)。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊古田村』
御所明神社 村の中程にあり、祭神大日靈尊、例祭二月・八月廿七日、神司吉田家の配下、船橋某が持なり、村内鎭守、
天滿天神社 稻荷社 諏訪社 疱瘡神社 天狗社
五所神社 秩父市伊古田五九八(伊古田字十王殿)
鎮座地伊古田は、荒川水系赤平川の支流である伊古田川流域に位置する山間の村である。
創建については、その資料を欠くため、明らかにできないが、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名で呼ばれていたことは明らかである。
現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、このうち吉田町下吉田に鎮座する社は古社と伝え、「井椋五社大明神」と号していたことが『風土記稿』に見え、祭神を猿田彦大神、武甕槌命、経津主神、天児屋根命、姫大神の五柱としている。
当社は、吉田町鎮座の椋神社をこの地に分霊したことに始まると思われ、「五所」という社名も、この五柱の祭神からきたものであろう。なお、『明細帳』では祭神を、久々能知命・大産霊命・金山彦命・埴山姫命・弥津波能売命に代えているが、これは、鎮座地の小名を十王殿と呼ぶことから、明治期の明和帳書き上げの折、冥府で亡者を裁く、十三と神導の幽世の神話と結び付けた結果と思われる。
造営記録では、寛政九己\丁歳四月八日の本殿再建棟札があり、これには当地祀官船崎相模守と秩父大宮秩父神社祀官の宮前丹後守の名が見える。
「埼玉の神社」より引用
神楽殿
行事に関しては、元旦祭・春祭り(4月4日)・秋祭り(9月27日)・大祓(12月大晦日)の計4回執り行われている。
春祭りが大祭で、市内太田の熊野神社の神楽師を招いて神楽殿で春神楽を奏するのが習わしである。現在の神楽殿は昭和43年の造営であるが、それ以前は毎年各戸から繩一房と筵一枚集めて、材木を組んで舞台を掛けたという。
この神楽は、氏子から「太田の太々」の名で親しまれ、神楽舞の中でも大黒様やヒョットコの踊りはほかの神楽では見られない楽しさがあるという。
社殿左側に祀られている境内社 社殿右側には境内社・天神社が祀られている。
疱瘡社・稲荷社
残念ながら、諏訪社・熊野社及び八坂社の石祠があるとされる場所は,よくわからなかった。
当社は吉田町鎮座の椋神社の分社と思われるが、本社と同様に「稲の神」として祀られたものと推察され、古くから「明神様」あるいは石棒(16㎝位)を祀っていることから「マラ明神」と称されて伊古田の鎮守として厚く信仰されているという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等