古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

生品神社

 生品神社が鎮座する群馬県太田市は、関東地方の北部、群馬県南東部(東毛)にある人口約22万人の市で、群馬県南東部の関東平野北部に位置し(鶴の首部分に位置する)、南に利根川、北東に渡良瀬川に挟まれた地域にある。
 
群馬県みどり市笠懸町にある旧石器時代の 遺跡である岩宿遺跡の発見でも分かる通り、古代からこの地域において豊かな暮らしが営まれてきた。また太田市付近一帯はは関東屈指の古墳存在地域で、国指定史跡に指定されている天神山古墳や女体山古墳をはじめ確認されているだけで800基以上の古墳が存在している。特に出土した人物や動物、建物などを模った形象埴輪の精巧性や美術性は他の地域を越えるものとして挂甲武人埴輪が国宝に塚廻り古墳群出土埴輪は国指定重要文化財に指定されている。平安時代末期になると新田一族が領主となり、周辺地域を開発した地であることから「新田庄」と呼ばれていた。

 
また太田市天良町にある天良七堂遺跡(てんらしちどういせき)は、平成19年に確認調査が行われ、そこで発見された 新田郡衙の郡庁跡 が、新たに 「 上野国新田郡庁跡 」 として国史跡に指定(平成20年7月28日)された。その構造は、50mにも及ぶ長大な掘立柱建物を東・西・南・北に「口」の字状に配置し、周囲には柵をめぐらせ、全体を正方形に近い形に造っており、東と西と北に配置された建物については、数回の建替えが確認されているという。通常の郡庁の大きさは、四角に囲まれた一辺が50mほどの大きさであるのに対し、新田郡衙の郡庁は一辺90mを越す郡庁となり、この規模は現在のところ郡庁としては全国で一番の大きさということだ。
所在地   群馬県太田市新田市野井町1923
主祭神   大穴牟遅神(別名大国主命) 
               
品陀和気命 建御名方神 他二十二柱(一説に平将門を祀っているという伝説がある
社  格   旧県社
例  祭  5月 8日 鏑矢祭
         
 生品神社は旧新田町役場、現在の太田市役所新田総合支所の北側約2kmに位置し、群馬県道322号新田市野井線を北上し、しばらく行くと左前方に、こんもりとした林と朱の鳥居が見えてくる。駐車場は神社正面入り口と神社裏側にあり、今回は正面の駐車場を利用した。
            
  
               生品神社駐車場の南側に建てられている新田義貞公銅像
                        
                                                          生品神社一の鳥居
 一の鳥居の左側には「生品神社境内」の案内板があり、また鳥居を過ぎて参道を進むとすぐ左側に社務所、前面には新田家の家紋の入った神橋がある。その神橋の先には新田義貞公挙兵六百年記念碑がある。神橋の先が道路で分断され、その先の二の鳥居から生品神社境内となるようだ。 

                      
                                            生品神社一の鳥居の左側にある案内板

 国指定史跡 新田庄遺跡  生品神社境内     
 所在地 群馬県新田郡新田町市野井640他   指定 平成12年11月1日

 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘三年(1333)五月八日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。昭和九年に建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成十二年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
 義貞が旗挙げを行った時はわずか百五十騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
 神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿の前には義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
 現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年五月八日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
 平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。(中略)
                                                           案内板より引用
             

 平安、鎌倉時代と新田氏との繋がりもあり、一の鳥居の先にある神橋には新田氏の家紋(大中黒)がついている。新田義貞が挙兵の旗揚げをした重要な地でもあり、この社の所々に重い歴史を感じさせてくれる不思議な空間があるような感覚だ。
             
 道を隔ててその先には二の鳥居がある。一の鳥居から二の鳥居までは木々も多いことは多いが、所々強い直射日光を感じ、明るい空間も見られたが、二の鳥居から先は全体的にほの暗く、湿度も多そうで重い感じだ(丁度参拝当日は雨が降っていたが、そのような天気でなくてもこの雰囲気はいつでも同じだと思う)。良く言えば厳粛な雰囲気がある、というべきか。

      二の鳥居を抜けると左側に手水舎          手水舎を過ぎるとすぐ先には三の鳥居
            
   三の鳥居から拝殿に向かう途中、右側に「神代木」と言われる御神木がある。木種はクヌギ。新田義貞が鎌倉幕府に対して討幕の挙兵の際に大中黒の旗をこの木に掲げ戦勝を祈願したといわれ、かなりの巨木、老木であったが、明治37年6月9日に倒れた。現在保存のため薫蒸処理しポリウレタン系合成樹脂加工により強化修復をし最後にシリコン剤塗布を施して大切に保存されている。

      参道左側で手水舎の先にある神楽殿             生品神社社殿手前左側にある石祠群。詳細不明
                         
                             拝      殿
 生品神社は、平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と記されていることから、平安時代に創建されたものではないかと考えられている。また当社は、1333年(元弘3年)新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府討伐の旗揚げをした場所といわれ、旗揚げをした時にはわずか150騎だったものが、のちに越後の新田一族などが加わって数千騎になり、15日間で鎌倉幕府を倒すことができたといわれている。
 
 1934年(昭和9年)建武中興600年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として国の史跡に指定され、さらに2000年(平成12年)には「新田荘遺跡 生品神社境内」として面積を広げて指定されている。
                                                                     

-全国神社名鑑由緒より-

 天喜年中、源義家奥羽征討の際戦勝祈願をしたと伝えられる。元弘三年五月新田義貞鎌倉に攻にあたり当社前に義旗を挙げたことは太平記の記す所であり、古くは生階と称し、新田郡内には同名の神社が多く、当社を本宮とし、古来産土神として崇敬が篤い。昭和九年三月新田義貞挙兵地として史跡に指定。明治以後県社に列した。


        
                             本      殿

         拝殿に飾られた社号額             本殿の奥にある富士嶽浅間大神の石神
                                         後ろには稲荷神社の石祠

生品神社は新田庄内にあって新田氏と関係が深い社である。

 新田氏(清和源氏 義国流)

 新田氏の祖義重は、八幡太郎義家の三男義国の長子であり、義重が新田氏、弟の義康は下野国足利に拠って足利氏の祖となった。
 治承四年源頼朝が挙兵したとき、はじめ義重は参加を拒んだが、結局は頼朝に帰属した。このためであろう、以来、新田氏は、足利氏に比べて鎌倉幕府にあって不遇の立場にあった。義重の三男の義兼は、新田庄内二十七郷を相伝して新田の本家を継いだ。
 義重の長男義範は上野国多胡郡山名郷に分家して山名氏となり、二男義俊は同国碓井郡里見郷に分家し、義俊の孫義基が里見氏、義継が大島氏、時成が烏山氏を称した。大島義継の子氏継は大井田氏を称して越後の妻有庄に発展した。四男義季は新田郡世良田村の得川に分家し、その子の頼氏は世良田を称した。また五男の経義は額戸氏を名乗っている。
 鎌倉時代の中期になると、義兼の孫政義が大番役で在京中、出家したため、所領を没収され、代わって庶流の岩松・世良田氏が栄えた。しかし、その世良田氏で頼氏が佐渡に流されたため、宗家が大館・堀口などの分家を出して勢を回復し、義貞に至っておおいに名を上げた。
 義貞は元弘三年(1333)鎌倉に攻め入って北条氏を滅ぼし、建武政権下で、武者所頭人・越後守護などに任じられた。しかし、足利尊氏が反旗を翻すにおよび、播磨国において赤松氏の討伐に失敗し、湊川では楠木正成と足利尊氏を迎えうったが敗戦、ついに越前藤島において敗死してしまった。義貞の弟脇屋義助は、義貞の死後、伊予に赴いて奮戦し、義貞の子義興・義宗らも南朝方として各地に転戦したが、相次いで戦死し、嫡流は滅んだ。
 これに対して、有力な庶流家である山名・里見および岩松の諸氏は終始足利方に属し、新田庄の支配権は岩松氏に帰した。山名氏は室町幕府の要職を占め、里見氏は房総地方の豪族として発展した


        
                生品神社駐車場の東側にある「床几塚」

 南北朝時代は日本全国で華々しく散っていった新田義貞をはじめとする新田嫡流家に対して、同族であり宿敵でもある足利尊氏は室町幕府を築きあげる。渡良瀬川を挟んでほぼ隣接していた足利氏と新田氏には平氏のように一族皆仲良くして、共に繁栄しようなどという美しい同族愛のような感情が微塵もなかったのだろうか。私の母方の実家は深谷市横瀬地区に在住で、鎌倉時代新田氏の所領内であったらしく、南北朝の戦さでも度々新田嫡流家と共にしていたらしい。現在の足利市の鑁阿寺の繁栄に対して、この生品神社の古ぼけて寂れた社の印象はどうしても拭いきれないものがある、という感情の根底には案外この先祖の血から来ているのではないかと、ふと頭をよぎった次第である。

       
                   


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