角渕八幡神社
家祖である安達藤九郎盛長は平治元年(1160年)の平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した功労者の一人で、幕府成立後には上野奉行職、三河守護などを歴任する。頼朝死後剃髪・出家し「連西」と名乗ったが、頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わっていたという。正治2年4月26日(1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就く事はなかった。
安達氏の本来の氏は「足立氏」で、盛長晩年にこの「安達氏」と名乗ったという。
所在地 群馬県佐波郡玉村町角渕2075
御祭神 誉田別命
社 挌 不明
例 祭 4月15日(春季例祭) 7月第2土・日曜日(夏祭り)
10月15日(例大祭)
玉村八幡宮から国道354号に戻り、下新田交差点を右折し、群馬県道40号藤岡大胡線を南方向に進み、角渕交差点を左折するとすぐに角渕八幡宮が見えてくる。この角渕八幡神社は玉村八幡宮の元宮で、その創建は建久6年(1195)8月、源頼朝の家臣で上野奉行安達藤九郎盛長が鎌倉鶴岡八幡大神の別御霊(わけみたま)を勧請し奉斎したのに始まるという。
角渕地域は利根川支流烏川のすぐ北側に位置し、水陸交通の要地で早くから開け、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれていて、安達藤九郎盛長がその地域の支配御家人に指示し、この地に勧請したものと考えられる。
鳥居から正面の社殿を撮影 鳥居の左隣にある案内板
角渕八幡宮
鎌倉時代の初め、建久4年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。
その後に建てられた社殿は、応永18年(1411)に関東管領畠山満家、永正4年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対島入道が修理をした。
後に、江戸時代の初め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長15年(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田を下新田の境に移築修造し玉村八幡宮と名を改めまつった。
現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である。
案内板より引用
拝殿の手前左側にある大神宮 大神宮の奥にある石祠二基、その右側にも八坂 社の石祠がある。
拝 殿
本 殿
角淵八幡宮が鎮座する「角淵」という地名の由来は以下の通りだ。
貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。
この地域には蛇神伝説や龍神伝説が数多く存在する。「角淵」の「淵」も河川に関連する地名であることは明白で、利根川流域に存在する玉村町の地形から「那波八郎伝説」や多くの河川に関係する伝承・伝説が作られたのだろう。
角渕八幡宮には庚申塚や水神や猿田彦大神等の石塔が非常に多い。写真左側には角渕八幡神社本殿修復記念碑がある。また社殿奥にはズラッと並んだ境内社が存在する(同右)。左から古峯神社(倭建命)、戸隠神社(天手力雄命)、熊野神社(伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛御気野命)、石神社(布都御魂命)、稲荷神社(倉稲魂命)。
角渕八幡神社(角渕八幡宮)本殿修復記念碑
当神社は玉村八幡宮の元宮です。元来角渕地区は水陸交通の要地で早くから開け、源頼朝が狩をして那須野から鎌倉へ帰る途中、角渕に休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ていた為、建久六年(1195)、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の別御霊を勧請したと伝えられています。
八○○年以上の歴史の中で盛衰を繰り返して来ましたが村人は鎮守様として敬い、親しみ、守って来ました。
現在の本殿は、氏子と近郷の崇敬者が発起人となり、天保二年(1831)に改築が為され、その後幾度か修復してきましたが近年、特に老朽化が進み調査の結果、歴史ある本殿を、末永く後世に伝える為には、銅板葺きの屋根や回廊等の大修理が必要で、工事を行うことが決定しました。
玉村八幡宮の御力添えと、氏子(二○○世帯)を中心に角渕村民一同協力し、力を合わせ、平成二十二年十二月十五日無事竣工しました。
平成二十三年十月吉日
記念碑より引用