樋越神明宮
(春鍬祭は平成14年2月12日に国の重要無形民俗文化財に指定されました)
玉村町 ホームページより引用
所在地 群馬県佐波郡玉村町樋越412-1
御祭神 大日孁貴命
豊受姫命 (配祀神 十四社)
社 挌 旧村社
例 祭 2月11日 春鍬祭 11月28日 例大祭
樋越神明宮は玉村町役場から北に進み、群馬県道24号高崎伊勢崎線の福島交差点を右折、そして福島橋南交差点を左折して利根川を渡り、最初の交差点(福島橋北)を右折する。道なりに真っ直ぐ進み、2㎞弱で森下交差点を左折すると左側に樋越神明宮のこんもりとした社叢が見える。
丁度正面から神社を左回りで回り込んで来た関係で、駐車した場所は神社の裏の境内。しかも駐車場がないようなのでこの裏の境内に駐車し参拝を行った。
県道沿いにある比較的新しい鳥居 鳥居の傍にある社号標石
拝殿前にある(三)の鳥居
実際には二番目なのだが三の鳥居には理由がある。
三の鳥居を過ぎてすぐ右側にある神楽殿 神楽殿の隣にある案内板
神明宮・春鍬祭の由来と行事
神明宮の創立と位置
長寛年号(1163~1165)頃、玉村御厨の中心として祭られていたもので、樋越古神明砂町にできた神社であり、安元年間(1175~1177)足利忠綱により再興され寛保二年(1742)の台風に依り大洪水が出て約五○○メートル位南に流され、現在の神人村神明原に位置しております。
現在の所在地名は、玉村町樋越四一二-四になります。
春鍬祭の動機
樋越古神明砂町の神明宮跡地は、天明三年(1783)の浅間山大噴火による土砂等によってその跡地は原形もわからないほどになってしまいました。樋越の耕作者神明宮跡地の神田・十箇所(一反歩)を掘り起こし、整地をして水を引き入れ、水田として稲作をしました。その神田から収穫した稲穂を、樋越の耕作者が作頭となって毎年献上したことが、現在の春鍬祭例大祭の始まりと言われています。
寛政十年(1798)から現在まで毎年実施されており、今年で二百有余年になる伝統文化であります。
神明宮の御由緒記
樋越の古神明砂町は、当時那波郷里の一角に属した大社であり、神官が十数人居た。
祭日が現在の二月十一日になったのは、明治六年(1873)に暦が太陽暦に変わった頃に定められたと言われています。
神明宮の氏神(祭神)と祭典について
大日孁貴命(内宮)
豊受姫命 (外宮)と致し、配祀神は十四社を祀る。
伊勢大神宮の御分霊を奉祀せるものにして高倉天皇の御代、安元年間藤原秀郷の末裔、足利又太郎忠綱が之を再興し、鎮座地を樋越神人村八王塚にして年々二月十一、長田狭田の式、併せて、抜穂の式、として古神明砂町に神田一反歩を有していた水田より献上した」と伝えられている。
又、秋祭も十一月二十三日と決められ、現在も新嘗例祭として続けられている。
神明宮の鳥居の配置について
第一鳥居は、武州賀美郡勅使川村字天神にあります。
現在は、丹生神社になっています。
第二鳥居は、玉村町南玉に礎石があります。
第三鳥居は、現在の神明宮参道入口にあります。
重要無形文化財指定への経緯
春鍬祭は、その伝統と祭事の内容が高く評価されて、
昭和四十六年四月玉村町より、重要無形文化財の指定を受ける。平成十二年三月群馬県より、重要無形文化財の指定を受ける。平成十四年二月国の文化庁より重要無形文化財の指定を受ける。
この度、神明宮本殿改修にあたり、神明宮の歴史を記し記念とする。
平成二十三年一月二十三日
案内板より引用
案内板の説明では、一の鳥居は現神川町丹生神社にあり、二の鳥居は玉村町南玉地区に礎石のみあり、三の鳥居だけが現樋越神明宮にあるということだ。
拝 殿
本 殿
樋越神明宮が鎮座する玉村町の町名の「玉」という名にも何かしら曰くがありそうだ。この「玉」は武蔵国内にも「埼玉」「児玉」「玉井」等の地名や「玉敷」「前玉」「などの古社名など、昔からの由緒ある地名として県北を中心にして数多く存在する。実はこの樋越地区の近郊にも「南玉」(なんぎょく)地区があり、やはり「玉」で共通する地域である。樋越地区は利根川と利根川支流である藤川が合流する地域であり、ある説によると水に関連している地名というが、実はハッキリとは判明していないのが現状だ。
また「樋越」の「樋」は「ヒ」と読み、本来の字は「火」と言っていたようだ。古事記には(熯)速日神を(樋)速日神とあり、熯(ひ)=樋であり、熯速日神は火をつかさどる神であることから、樋も火に関連した言葉であろう。つまり、「樋越」とは「火を起こす」という意味ともなり、川辺の砂鉄を製鉄する鍛冶集団がこの地にいたことを示す地名なのではあるまいか。
社殿の左側奥にある境内社群 同右側にも境内社が磐座らしき石を挟み16社ある。
境内の様子