野本将軍塚古墳
比企丘陵(男衾地域を含む)地域は、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であったと言われているが、東松山台地はその比企丘陵の稜線下に位置していている関係から比較的早くから開発された地域だったことは、都幾川を挟んだ南側の低地帯で発掘が進んでいる反町遺跡の発見、調査で解っている。(古墳時代初頭の水晶を素材とした玉を生産した工房を含む数多くの住居跡群が発見されている)
この反町遺跡は出土品の質・量から野本将軍塚古墳の背景となる遺跡と考えられるため、最近では前期古墳説が有力となりつつある。
所在地 埼玉県東松山市下野本612
形 状 前方後円墳 全長115m、後円部高さ13m、前方部高さ8m
時代区分 古墳時代初期から中期か(推定)
区 分 埼玉県指定史跡
野本将軍塚古墳は国道254号下野本交差点を右折して国道407号に移り、下野本南交差点を左折すると、道路際までせり出した鬱蒼とした雑木林の丘が左側にある。そこが野本将軍塚古墳だ。また標識もあるので分かりやすい。北側には無量寿寺や野本小学校があり、無量寿寺の駐車場を一時お借りして散策を行った。
この古墳は東松山台地の東方、川島町に向かって張り出した舌状台地のほぼ中央で、南面して都幾川を望む台地の縁辺に位置していて、標高差はさほどないが南側の都幾川及びその周辺の低地が一望できる場所に造られている。
県道345号小八林久保田下青鳥線の脇に、古墳銘を刻んだ石碑が建っていて、その横のかなり薄くなって見づらくなった案内板がある。よく目をこらして見ると、野本将軍塚古墳は昭和35年(1960)3月1日に県の史跡に指定された。また全長115mの墳丘は、武蔵國でも最大規模の二子山古墳(埼玉古墳群)に匹敵する大きさだが、なんでも明治の末に、隣接する旧野本小学校の敷地を拡大するために先端部の封土が大量に削り取られてしまったことが知られているので、復元すると埼玉古墳群の二子山古墳を凌駕する可能性もあるそうである。この古墳の築造時期は最近の推定では二子山古墳よりかなり古い前期古墳と考えられていて、そうであれば、築造当時は北武蔵で最大の墳墓であったことになる。
また昭和53年の市史編纂室による後円部墳頂のボーリング探査の結果、礫の分布が確認され、礫槨状主体部の可能性が考えられている。
鞍部から後円部を撮影。高さ13mと非常に高い墳丘で、高さだけでは埼玉古墳群の二子山古墳と同じ高さ。また墳丘の高さからその当時の高度の土木技術を感じずにはいられない。
無量寿寺、野本小学校側にある案内板
野本将軍塚古墳
将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長は115m、高さ前方部で7m・後円部で12mです。
まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(ハニワなど)は明かではありません。
将軍塚古墳を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布してます。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。
昭和53年3月 東松山市教育委員会
案内板より引用
野本将軍塚古墳の埋葬者は一体誰だったのだろうか。この比企地域の100mを超す古墳はこの古墳一基のみで、近場に存在する柏崎1号墳、通称おくま山古墳が62mの前方後円墳、東松山市大谷にある雷電山古墳(76m、前方後円墳)、柏崎10号墳(天神山古墳、62,5m、前方後円墳)以外は小古墳がほとんどである。だからこそこの野本将軍塚古墳の大きさが一際目立つわけで、この古墳の埋葬者と埼玉古墳群を含めた北武蔵地域一帯との因果関係はどのようなものだったのか感じずにはいられない。
何かと埼玉古墳群との関係に関して比べられる特別な古墳であるが、大変魅力ある古墳であることには間違いなく、今後の発掘調査を切に希望する次第だ。