古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

四方寺湯殿神社

 山形県にある湯殿山神社は、月山神社・出羽神社と並ぶ出羽三山神社の一つである。出羽三山は、明治時代まで神仏習合の権現を祀る修験道の山だったが、明治以降は神山となっていて、湯殿山神社では大山祇命、大国主命、少彦名命の三神が祀られている。
 熊谷市内では、「奈良新田」、「四方寺」、「西別府」そして境内社であるが、「代」各地区に湯殿神社が鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市四方寺401
             
・ご祭神 大山祇神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 四方寺湯殿神社は国道407号を熊谷警察書から旧妻沼町方面に北上し、「中奈良」交差点を右折、埼玉県道359号葛和田新堀線に沿って、暫く2㎞程進むと、道路沿いに「四方寺農村広場」と呼ばれる公園があり、その隣に四方寺湯殿神社はひっそりと鎮座している。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、県道に対して背を向けて鎮座している配置となっており、また社務所や自治会館等ないため、専用駐車場がない。そこで南側に回り込むように移動し、社正面近くの路肩に停めてから、急ぎ参拝を行った。
        
                            南向きの四方寺湯殿神社
             
                     社号標柱
 
          石製の鳥居           「慎ましい」という表現が似合う境内
 
        社殿手前で左側に境内社            同手前右側に境内社
       左から八坂社・天神社          左から神明社・石灯篭・伊奈利社
        
             ひっそりと鎮座する
四方寺湯殿神社拝殿
 湯殿神社 熊谷市四方寺一〇六五(四方寺字西田)
 利根川と荒川のほぼ中間の低地に位置する四方寺に鎮座し、大山祇命を祀る当社は、『風土記稿』に「湯殿山権現社 村の鎮守とす」とあるように、古来、四方寺村の鎮守として奉斎されてきた。創建の年代は定かではないが、村一番の旧家である吉田家によって祀られたとの伝えがある。吉田家の屋敷から見ると、当社はちょうど艮(北東)に当たるため、この伝えによるならば、初めは、同家の鬼門除けとして祀られたが、村の発展に伴い、村の鎮守になったものと推測される。
 江戸時代には、地内の蓮華院が別当を務めた。蓮華院は、湯殿山と号す真言宗の寺院で、開基は不明であるが、やはり吉田家によって建てられたものとの伝えがある。また、当社は享和元年(一八〇一)九月に神祇管領卜部良連から幣帛を献じられており、これは今も本殿内に奉安されている。かつては、このほかに、金の幣束も本殿に入っていたが、いつのころか盗まれてしまい、以後「本殿に神体が入っていないから『カラッポコ様』だ」と揶揄されることもしばしばあった。
 旧社格は村社で、『明細帳』には祭神の項に「合殿 月夜見命」とあるが、合祀の記録はなく、口碑にも伝えがないため、月夜見命を祀るようになった経緯はわからない。境内には、元は杉の大木が林をなし、参道が南に長く延びていたが、杉はキティ台風で倒れ、参道は区画整理でなくなったため、昔からみると随分寂しくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               社殿右奥に鎮座する境内社・金比羅宮
「四方寺(しほうじ)」という地名も変わっているが、『埼玉県地名誌』によれば、「はっきりしていないが、寺名ではないであろう。撓んだ土地を意味する。“シオジ”の転化からきたものではないか」と簡潔に説明されている。
「撓んだ」とは「曲がる・傾く・ たわむ」という意味があり、思うに河川等の氾濫により、自然堤防等が形成され、そこから低地帯とはいえ、緩やかな凸凹のある地形に地区全体が形成されていたのではないだろうか。
「シオジ」とは漢字変換すると「塩地」になると仮定して、話を進めよう。「塩」を冠したこの地域で、土地から塩が採れたり、交易品として集った事実はないようで、そうすると地形に由来するものと考えることができる。
        
                四方寺湯殿神社からの遠景

 旧男衾郡には塩村が存在していて、今の江南町塩地区がそれにあたるが、江戸時代の文献には嘗て「四方郷」と呼ばれていた。この塩地区は、「地名辞典」などでは、“シワ”と同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明していて、実際、「塩」地区は「正木・駒込・諸ヶ谷・久保ヶ谷・檜谷」などの谷津に区分された丘陵地と緩斜面から形成されている。つまり、土地が重ったような起伏の大きい場所のイメージを、当時の方々は「シオ(塩)」という言葉で表現し、それが今でも使われているかもしれない。

 四方寺という地名も、「塩地」を語源と考えると、妻沼低地に位置しているとはいえ、全ての土地が現在のように均一のとれた地形ではなく、河川のより出来る堤防もあれば、窪地や高台もあったであろう。自然がつくりだす造形をうまく利用し、低地を開拓し、田畑をつくり、自然堤防等の高地に居住していたに違いない。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉県地名誌」
          「 熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」等 

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