岡諏訪神社
深谷市本田の田園地帯の排水に源を発する。深谷市から熊谷市、東松山市と概ね東から南東方向へと荒川の右岸側を並行するように流れ、途中右岸に和田川、左岸に通殿川を合流した後、吉見町上砂で荒川の右岸に合流する。
和田吉野川は、嘗ての入間川水系に属し、市野川へ合流していた。 1629年に伊奈忠次による荒川の瀬替え(荒川の西遷)により荒川が熊谷市の久下で締め切られ、和田吉野川の吉見町上砂の地点に付け替えられ、荒川本流が流れることになった。また、寄居町や深谷市を流れる吉野川も和田吉野川の一部であったが、明治初期に北側につなぐ水路が開削されて荒川に流れるようになり、吉野川本流が分離した。また、和田吉野川の呼称は元々和田吉野川と和田川の合流点より下流を示していて、それより上流側は吉野川であったが、現在はその上流側も和田吉野川と称している。
その和田吉野川中流域右岸に位置する東松山市岡地域は、上岡・中岡・下岡の三つの地区に分かれていて、岡諏訪神社はこの内の上岡の鎮守として祀られている。
・所在地 埼玉県東松山市岡1733
・ご祭神 建御名方命
・社 格 旧岡郷上岡鎮守・旧無格社
・例祭等 祈年祭 4月初寅 夏祭り 7月14日 例祭 8月26日
秋祭り 10月1日
国道17号線を熊谷市街地方向に進み、熊谷のシンボルともいえる『八木橋百貨店』のある「本石二丁目」交差点を右折する。その後、国道407号線をひたすら南下する事6㎞程、「上岡」交差点を左折し、100m程行った丁字路右側にある「上岡集会所」を左方向に進むとすぐ右手に岡諏訪神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
上岡集会所には若干の駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
岡諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「岡ノ郷」の解説
大谷村の北、南西に流れる荒川支流和田吉野川の右岸に位置する。村域は同川に沿う細長い低地、および同低地に沿う台地(丘)とからなる。元亨三年(一三二三)の年紀を有する地内光福寺の宝篋印塔に「武州比企玉太岡此国山光福禅寺」とあり、古くは玉太(たまふと)の岡とよばれていたという。近世には岡村・岡郷などとも称した。熊谷往還が通り、鎌倉古街道という道もある。慶長三年(一五九八)に検地が行われ、このときの田方検地帳写(埼玉県史)一冊が残存する。田園簿には岡村とみえ、田高四二三石余・畑高一四八石余で旗本酒井領、ほかに高福こうふく(光福)寺領があった。文化八年(一八一一)川越藩領となる(「風土記稿」など)。
鳥居の手前、参道左側にある伊勢参宮記念碑三基
『新編武蔵風土記稿 岡郷』において「土地もとより高く岡のさまなり、村内光福寺釋迦堂の前に、元亨年中に建し寶篋塔sり、それに武州比企郡玉太岡國山福寺としるせば、往古は玉太の岡と唱へしにや、又當村より艮の方十五町許を隔て玉作村あり、かく玉をもて名村し故詳ならず」と載せており、この地域が「岡」のように一段高い場所であるとの地名由来が記されている。
一直線に伸びる参道
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 岡郷』
諏訪社 妙安寺の持、
妙安寺 曹洞宗、福田村成安寺の末、諏訪山と號す、開山祖眞文祿元年十二月朔日寂す、本尊彌陀を安ぜり、觀音堂
諏訪神社 東松山市岡一七三一(岡字寄居)
和田吉野川の右岸に位置する岡は、上岡・中岡・下岡の三つの地区に分かれる。この内の上岡の鎮守として祀られているのが当社である。
口碑によると、当社は初め妙安寺の境内に祀られていたが、文政元年(一八一八)に現在の地(妙安寺の隣接地)に移されたという。昭和四十二年の社殿再建の際に「奉新造上屋一宇文政元戌寅稔十有二月初五日妙安院位立峰双代」と記した棟札が発見されており、この遷座に合わせて覆屋(上屋)が建立されたことがわかる。また、別の口碑によれば、当地は水害の多い所であったため、耕作に苦労した村人がその安泰を願って当社を奉斎したとも伝えている。
妙安寺は諏訪山と号する曹洞宗の寺院で、開山は文禄元年(一五九二)に入寂した祖真和尚である。同寺が山号を「諏訪山」と号したとすると、寺の創建時には諏訪神社が既にこの地に存在し、一旦はこの諏訪神社を取り込んで寺の鎮守としたが、改めて文政元年に寺の隣接地に移して村の鎮守としたものであろう。
明治初年、妙安寺の手を離れた当社は、社格制定に際し無格社となったものの、幸いにもその後の合祀政策で他社に合祀されることなく、現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
『風土記稿』において、「用水には恩田村の出水を用れど、川に添し所は地形も卑ければ水損の所あり、西方に一篠の街道あり、幅一間半、河越より熊谷への街道なり、又同じ邊に鎌倉古街道と唱る所あり」と、鎌倉古街道の説明と、この地域が岡のように他の地域よりやや高いが故に、用水の確保に難儀し、慢性的な「水損の地」であることが記されている。
参道左側に祀られている天神社と八雲神社 参道右側に祀られている稲荷神社と白山神社
社殿右側奥にある納札所
札所の下の段に不思議な石が置いてあった。
社殿から見た境内の一風景
ところで、岡諏訪神社の東側には「諏訪山」と号する曹洞宗の妙安寺があり、祖眞和尚(文禄元年1592年寂)が開山、江戸期には岡諏訪神社の別当を勤めていた。
妙安寺本堂
馬頭観音
旧別当の妙安寺境内にある馬頭観音は、「上岡の観音様」の名で知られている。これを世に広めたのは、妙安寺一七世愚禅和尚であったといわれている。愚禅和尚は、寺に来た人々に大根の種を配ったり、また旅芸人や瞽女(ごぜ、各地を旅して三味線と唄を聴かせる盲人芸能者を意味する歴史的名称)・虚無僧を寺に招いて歓待するなどして、口伝えによって広めていった。最盛期には関東一円に講社が結成され、二月十九日の縁日には馬を連れて来た講員で境内は一杯になったという。この観音は、江戸時代より軍馬や農業馬の守り観音として信仰を集め、旧陸軍の騎兵隊やバクロウ、または現在は競馬関係者からの信仰が厚く、「上岡観音を参拝しない馬持ちはウマカッタといってはならない」とさえいわれたそうだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等