古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

笠幡鏡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡282
             ・ご祭神 猿田彦命 大山祇命 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭(春祈祷) 415日 
                  秋祭(お九日) 
1015
 笠幡箱根神社から一旦南下、JR川越線の踏切を越えてすぐ右手に「川越警察署笠幡交番」がある十字路を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、暫く東行し、南小畔川に架かる田中橋を過ぎて1㎞程進んだ「霞が関小学校(東)」交差点を左折する。道なりに暫く進むと、南小畔川に架かる庚申橋が見えるので、その手前の十字路を右折して直進すると、正面やや右側に笠幡鏡神社の石製の鳥居が見えてくる。
        
                  笠幡鏡神社正面
 当社の具体的な創建時期は不明であるが、当地を開発したある村人が、一個の古びた鏡を発掘し、その裏に「猿田」の文字が読み取れたため、それを御神体として祀ったことに始まる。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 鏡宮 承應二年七月勧請の棟札あり、神職伊藤長門吉田家の配下、
『入間郡誌』
 猿田彦大神を祭る。 勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札 あり。 又延宝五年三月二日造立の棟札あり。 元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。
 古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。 依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。
今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。
 
  綺麗に手入れされている参道、及び境内    境内の一角には案内板も掲示されている。
        
                                      拝 殿
      南小畔川のすぐ東側に位置している為か、石段上に社殿は鎮座している。
 鏡神社(みょうじんさま) 川越市笠幡282(笠幡字後大町)
 当社の創建は不詳であるが、かなり古くから信仰されていたことは、社蔵の承応二年の棟札により明らかである。棟札はそのほか延宝五年・元禄四年・宝永五年・宝暦八年・万延元年・明治八年のものを蔵する。古来、笠幡の伊藤家が祀職に預かり、承応の棟札にも「禰宜伊藤刑部」と見える。
 鏡神社という社名は古老の伝えに、昔土地開拓の折に鏡一面を発掘し、その鏡の裏面に「猿田」と字が彫ってあったのでこの鏡(承応のころ紛失したという)を奉斎して「鏡宮」としたという。祭神は、猿田彦命・大山祇命・菅原道真公である。
 古くは笠幡大町の神明地(現社地より五〇〇メートル南方)に鎮座していたが、明治初年に大室家の山林であった現在地を境内として移した。この理由は不明であり、旧地は現在、学校の敷地となっている。
『明細帳』には、境内神社として「神明宮祭神伊勢大御神、由緒不明」とあるが、現在はなく、本殿に合祀してしまったとも伝える。氏子は神明地にあった当時は神明様と呼んでいて、鏡宮ではなかったというが、『風土記稿』には「鏡宮」と載り、伊藤家の裁許状には「尾崎明神鏡宮両社」と記すことから社名に変遷のあったことがうかがわれる。古来当初の産土であったことから、明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          拝殿上部に掲げてある扁額
  拝殿は坂戸市の厚川大家神社のように、正面が見開き状態で、特徴的な構造をしている。 
        
                     本 殿
 氏子区域は笠幡の大町地区で、氏子戸数は『明細帳』によれば二四戸であるが、現在はかなり多くなった。当地は畑作を中心とする農業地帯であるが、近年、川越線の開通により、交通の便がよくなり、急速に宅地の造成が進められている。  
 鏡神社はお産の神様であるといわれ、古来この地域ではお産で亡くなった者がいないのは、鏡神社のお陰であるといわれている。昔は婦人が願を掛けるためか、中剃りの長い髪の毛が神社の拝殿に沢山結んで奉納されていたという。
        
                                 社殿からの一風景

 神社とは別に村の行事として「二百十日のお日待」を91日に行ったという。これは、回り番が事前に宿を決めて、雨風が荒れず、順調に収穫できるようにと祈願の意を込めて飲み食いする行事であり、このような行事のお触れを出すのは神社の年行事担当の役目で、日が決まると手分けをして触れ歩いたので、大変だったとの事だ。
 このように氏子の日々は鏡神社と密着した生活が延々と営まれていたのであろう



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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