奈良新田湯殿大神社
・ご祭神 大山祇命
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月21日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月10日
*例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
奈良新田湯殿大神社は南北に長い奈良新田地区に鎮座する、規模は小さいながらも旧村社格の社である。途中までの経路は四方寺湯殿神社を参照。「中奈良」交差点を利根川方向に北上し、道路沿いにある「横塚山古墳」の手前のT字路を左折すると、ほぼ正面に奈良新田湯殿大神社が鎮座する場所に到着できる。
残念ながら専用駐車場等の適当な空間が周辺確認したが見当たらなかった為、道を隔てた東側に路駐して、急ぎ参拝を行った。
南北に長い参道の先に朱の鳥居が屹立している。
奈良新田地区は『新編武蔵風土記稿』では「中奈良新田村」として紹介されている。元々江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになったという。その後幕末に至り今の奈良新田に改称されたとの経緯があった。
創建年代等は不詳ではあるが、江戸時代に中奈良新田として当地が開拓され、村の鎮守として出羽の湯殿山権現を勧請して創建したという。
広大な妻沼低地の肥沃な地域の中に集落は形成され、その最北東部に社が鎮座している。まさに村の鎮守様との形容が相応しい社。
正面鳥居
拝殿手前左側に聳え立つ老木。
ご神木と判別できないが、やはりこの姿には威厳が感じられる。
拝 殿
湯殿大神社 熊谷市奈良新田二五七(奈良新田字東通)
奈良新田は、江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになり、幕末に至って現行の奈良新田に改称された。この辺りは、利根川と荒川に挟まれた農業地帯であり、水利を生かして米麦が耕作されている。
当社は、この奈良新田の鎮守として、出羽国(現山形県)の湯殿山から分霊したものと伝えられており、江戸時代には湯殿権現社と称していた。ただし、残念なことに、出羽国から分霊して当社が創建された年代については伝わっていない。また、湯殿権現社と呼ばれていた当時は、本殿に本地仏として、阿弥陀如来を中央に、その両脇に観世音菩薩と勢至菩薩を配した阿弥陀三尊像を祀っていたが、神仏分離により、当社に隣接する氏子の箕田家に移された。
この本地仏の移動と同時に、従来当社の祭祀をつかさどってきた西福寺の管理を離れ、明治二年四月に湯殿大神社と改称し、村社となった。このことは、当時、村社として認められるには仏教色を排除することが必要であったことを物語っている。また、当社は村社ではあったが、小規模で氏子の数も少なかったところから、明治の末に奈良神社に合祀するとの話があったが、氏子の厚い信仰を尊重して合祀は見送られ、現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある趣のある扁額 社殿左側にポツンとある石祠。詳細不明。
社殿の右側に鎮座する境内社・八坂神社 八坂神社の隣には庚申石碑2基
及び大黒天石碑あり。
奈良新田湯殿大神社のすぐ東側には横塚山古墳(写真中央部のこんもりとした場所)が見える。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等