上戸日枝神社
この河越氏の発祥地は、吾妻鑑文治二年条に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」とあり、現在の埼玉県川越市上戸地域で、常楽寺境内付近といわれている。
『新編武蔵風土記稿 上ハ戸村』
もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、(中略)山王社 大廣院持、上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして例祭九月十九日なり、社地には松栢(かしわ)茂生じ神さびたる地にして、松の大なるもの圍一丈一二尺許なるを始とし、數十百株に及べる松林あり、其下は靑苔滑かにして、餘木なく榊のみにして、殊勝の景地なり、又西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり、又當社の古鐘、今川越の養壽院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず。銘文の略に曰、武藏国河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣經重、大勸進阿闍梨圓慶、文應元年云々、
常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、
大廣院 本山修驗、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回国雑記】に河越と云る所に至り、最勝院と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる日中の勤め聽聞の爲に罷りけると云云、
河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君(やしないぎみ)」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿2年(1155年)8月16日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(現埼玉県入間郡毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる。
・所在地 埼玉県川越市上戸316-1
・ご祭神 大山咋命 大己貴命
・社 格 旧上ハ戸・鯨井・的場三村惣鎭守 旧村社
・例祭等 例祭等 元朝祭 1月2日 春祭り 4月21日
天王様 7月15日 秋祭り 10月15日
川越市上戸地域は、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地および台地に立地している。標高は入間川左岸に位置する河越館跡付近が19m程で、西側の日枝神社付近が21.1mと入間川から西方向に行くにつれてなだらかに標高は高くなっている。
途中までの経路は吉田白鬚神社を参照。埼玉県道114号川越越生線に戻り、右折後東行する。小畔川に架かる「金堀橋」を渡り、そこから更に500m程進み、「上戸」交差点を右折すると、進行方向左手には上戸日枝神社の緑豊かな社叢林が見えてくる。
上戸交差点を更に東行した2番目の路地を右折すると、上戸日枝神社の専用駐車場が道造にあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
上戸日枝神社正面
『日本歴史地名大系』「上戸(うわど)村」の解説
的場村の北東、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属し、「上ハ戸」とも記した。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の新田又七郎の所領として「弐拾貫三百文 河越卅三郷上戸」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。近世の検地は慶安元年(一六四八)に行われた(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、畑高二〇三石余、ほかに野銭永二五〇文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一六八石余、反別畑三五町二反余。
鳥居付近に設置されている「日枝神社(新日吉山王宮)の由来」の石碑
河越氏の長い歴史を無言で語りかけるような威厳さえ感じさせる境内
上戸白髭神社の境内は、平成13年5月9日「川越市指定記念物 史跡」として指定を受けてくる。
河越館跡近くにあるこの神社は、往時新日吉山王権現(いまひえさんのうごんげん)と称しており、河越氏の荘園経営と密接な関係にある。河越氏は後白河法皇(法皇在位1169から1192)のとき、この地を京都の新日吉社に寄進して河越荘を立荘し、自らは荘官(しょうかん)となって平安末期から室町時代の始めにかけてこの地方を支配した。その関係で、河越に新日吉社を勧請(かんじょう)したと考えられる。
「新編武蔵風土記稿」の挿絵によると、神社の社域に土塁が巡らされており、現在でも北側に一部痕跡が遺されている。
河越館跡は昭和59年(1984)に国指定史跡になっているが、この上戸日枝神社境内も河越館跡と一対をなすものであり、その上でも重要である。なお、江戸城鎮守の山王社は、仙波山王社から勧請されたと江戸時代広く言い伝えられていたが、昭和時代に入り、熊野那智大社の米良文書が発見され、南北朝時代にすでに江戸山王社が存在していることがわかったため、河越氏の時代に当神社から分祀された説が出されているという。
参道左側に祀られている神明社 参道右側には八坂神社が祀られている。
八坂神社の左手奥に見える社務所
因みに神明社・八坂神社の鳥居寄り側には参道を挟んで一対をなして
「戸衛神社」が祀られている。残念ながら写真に収めていない。
まるで、門番・衛兵の如く、社殿を守る存在のような社である。
拝 殿
日枝神社 川越市上戸三一六-一(上戸字山王原)
上戸の地は、川越市西部の入間川と小畦川とに挟まれた所である。
当社は、往時新日吉山王権現と称し、『明細帳』には「貞享三丙寅年秋九月隠士航譽ナル者誌セシ縁起書ニ云ク往古貞観年中ノ創立」とあり、平安初期の創建を伝えており、また、他の社記によると陸奥国の住人休慶という修行僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神示により武蔵野のこの地に社を建立したとある。
しかし、川越三十三郷と称された河肥庄の庄司であった河肥氏の館跡が、上戸の地(現在の常楽寺境内の辺り)であるといわれていること、また河肥庄が新日吉社の社領とされていたこと、更に往時の社号が新日吉山王権現であったことなどを勘案するに創建年代は『明細帳』の記載よりも下るものとも考えられる。すなわち、新日吉山王権現の本社である新日吉神社は、永暦元年、近江にある日吉大社の信仰が厚かった後白河上皇が、京都東山七条の法住寺殿の一画に勧請し、以来、皇室による御幸は一一九度に及ぶほどの社であった。
この新日吉神社と当地を結ぶのが河肥氏である。永暦二年に新日吉神社領となり、河肥荘の荘司であった河肥氏が、平氏の一門で、平氏は日吉神社を氏神として信仰していたことにより館のある上戸の地に京都から新日吉神社を勧請して新日吉山王権現と号したものと思われる。
社記によると、寛元元年北条時頼が当社に報賽し、社殿の再営に合わせて田畑の寄附を行っている。
河肥太郎重頼の曾孫遠江守経重の開基となる川越市元町にある養寿院には、開基の前年、当社に奉献されたと思われる「武蔵国河肥庄新日吉山王宮 奉鋳錘鐘一口長三尺五寸 大檀那平朝臣経重 大勧進阿闍梨園慶 文應元年 大歳 庚申 十一月廿二日(以下略)」の銘文のある洪鐘(重要文化財)がある。『明細帳』には「文応元庚申年平朝臣経重別ケテ奉崇敬リ」とあり、更に『郡村誌』によると養寿院境内には古く山王社が祀られ、明治の神仏分離により門前稲荷社(現豊川稲荷社か)に合祀したことが知られる。これらのことから、経重が養寿院に当社を分霊し、当社に洪鐘を寄進したものと考えられる。
江戸城の鎮護として仰がれた日枝神社は、以前より川越喜多院の日枝神社を文明一〇年太田道灌によって勧請されたものとして伝えられたが、『日枝神社史 全』(昭和五四年刊)によると紀伊国熊野那智大社に蔵する米良文書の貞治元年一二月の願文に「江戸郷山王宮」の名が見られることにより文明一〇年よりも一一六年前には江戸に山王宮が祀られていたことが知られる。この山王宮はその帰依者秩父氏・河越氏・江戸氏によって江戸館の鎮守社として当社より勧請され、代々崇敬を受けたもので、徳川家康の入城以前より江戸城内に祀られていたことが知られ、太田道灌の江戸城の築城により再興されたものであるとあり徳川家ではこの山王宮を産土神として祀るなど幕府直轄社として尊崇した。これによって、当社は慶安元年に社地境内畑九反六畝六歩が除地されている。
明治元年九月、社号を新日吉山王権現から日枝神社と改め、同五年には上戸・鯨井・的場三カ村の鎮守として村社となった。
祭神は大山咋命・大己貴命で、合祀神は大御食都命・少彦名命・大日孁貴命・大屋毘古命である。
本殿は一間社流造りで、内陣には漆塗りに金属の飾りをあしらった宮型厨子に金箔押幣帛を安置する。以前このほかに日吉の本地である阿弥陀三尊を刻した懸仏も安置したが、現在は総代により管理されている。厨子の両脇には正徳元年の木製眷属像(猿)がある。
祀職は『風土記稿』に「大広院 本山修験、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と号す、日吉山王の別当なり、社地の東に接して除地の内にをれり、本尊は不動木の立像長二尺三寸、慈眼大師の作」とある。この大広院は神仏分離により復飾して上戸姓を名乗り昭和三四年まで神職を務める。同家には修験の名残を示す弘化三年銘の不動明王の掛軸が二幅蔵されている。また、現在の社務所は以前の大広院であるという。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側奥に祀られている愛宕神社の石碑 社殿の左側に町られている境内社
左から疱瘡社・八幡社・八坂社
本 殿 本殿内部
上戸白髭神社本殿一棟は、平成21年1月28日「川越市指定有形文化財 建造物」として文化財の指定を受けている。本殿は、柿(こけら)葺屋根の大型一間社流造で、かつては妻飾り、組物、蟇股、頭貫(かしらぬき)、内法長押(うちのりなげし)、海老虹梁など極彩色が施されていた。彫刻装飾についても板壁に菊花紋、菊水紋が描かれていたが、現状では痕跡が残るのみである。妻飾りの蟇股は背が低く肩が盛り上がった輪郭の中に、近世前期の流れをくむ丸彫り彫刻が施され、虹梁や木鼻などの絵様は彫りが浅く、細い線で描かれるなど、古式の技法が用いられている。建築年代についての明確な史料はないが、装飾が控え目な近世前期の特徴を顕著にあらわしていることから、17世紀中期ころの建築と推測されるという。
境内に案内板が設置されている上戸白髭神社の「懸仏」
社殿に向かって右側に祀られている境内社
左より大地主社・御嶽社・白山社
河越氏は、頼朝が反平家の兵を挙げた治承4年(1180年)の治承・寿永の乱では当初平家方として戦うが、のちに同族の畠山氏・江戸氏と共に頼朝に臣従、頼朝政権下での重頼は、妻が頼朝の嫡子・頼家誕生の際に乳母として召され、娘(郷御前)が頼朝の弟・源義経の正室となるなど、比企氏との繋がりによって重用された。しかし頼朝と義経が対立すると、義経の縁戚であることを理由に重頼・重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も重能の子・畠山重忠に奪われる。
河越氏はしばらく逼迫するが、元久2年(1205年)6月の畠山重忠の乱において重頼の遺児重時・重員兄弟が北条義時率いる重忠討伐軍に加わって以降、御家人としての活動が見られる。家督を継いだ重時は将軍随兵として幕府行事に参列し、弟重員は承久3年(1221年)の承久の乱で幕府軍として戦い武功を立て、畠山重忠が滅んでから20年後の嘉禄2年(1226年)4月、幕府により重員が留守所総検校職に任じられ、総検校職は40年ぶりに河越氏に戻る。但し、武蔵守を兼ねる執権・北条氏支配の元、総検校職は形骸化され実権を伴っていなかったことが窺える。
元寇の頃には宗重が地頭として豊後国へ下向、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)元弘の乱では、宗重の弟の貞重が幕府軍の代表として在京すべき御家人20人に選ばれ、六波羅探題滅亡時に幕府軍として自害している。その子・高重は倒幕側に転じ、武蔵七党と共に新田義貞の挙兵に加わり倒幕に貢献した。
上戸日枝神社境内の様子
河越氏最後の当主であり、高重の子である河越直重は、正平7年/文和元年(1352年)、観応の擾乱直後の武蔵野合戦において足利尊氏方に参戦し、新田義宗を越後に敗走させた。その後、関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、相模国守護職となる。しかし関東の足利体制を固める鎌倉公方・足利基氏の下で、康安2年(1362年)に畠山国清が失脚。河越氏の相模国守護職も解任されてしまう。
応安元年(1368年)2月、上杉憲顕の留守を狙い反乱を起こすが敗れ、伊勢国に敗走した。
こうして、平安時代から武蔵国の武士団の棟梁で、「武蔵国惣検校職」をつとめてきた名門河越氏は400年の歴史の幕を閉じたという。
河越氏は平安時代末期以降、知行国主や幕府などに伝統ある国衙在庁出身の有力武士と認識され続け、そのために源氏、北条氏、足利氏ら時の権力者に翻弄された一族であったといえよう。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市 HP」
「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板・石碑文」等