岩殿熊野神社
日本の神道などでは、「土地ごとにそこを守護する地主神がいる」とされている。土地は神の姿の現れであり、どんな土地にも地主神がいる、とする説もある。神社や寺院に祀られることが多く、その地主神は、その神社、或いは寺院が建っている場合は、寺社創建以前に鎮座した神のことをいい,地主大明神,地主権現などと呼ばれることもある。
古くは『古語拾遺』(9世紀成立)にあり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を営むとある。『延喜式』(10世紀成立)では、神祗五(神祗編第五巻)二十二条にて斎宮祈年祭に関して地主神の記述があるほか、同巻六十条にて記述がある。
地主神への信仰の在り方は多様であり、荒神・田の神・客人神・屋敷神の性質がある地主神もいる。一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもある。地主神を祀る(まつる)旧家からの分家に分祀されたり、屋敷の新設に伴い分祀されることもある。御神体も多様で、自然石、石塔、祠(ほこら)、新しい藁束、御幣(ごへい)などがある。祀る場所もまた多様で、神社、寺院のほか、丘や林の祠(ほこら)、屋敷、屋敷の裏山で祀り、一族の墓が神格化する地域もある。
・所在地 埼玉県東松山市岩殿1239
・ご祭神 大山咋命
・社 格 不明
・例祭等 例祭8月26日(おすわさま)
東武東上線高坂駅西口から通称「彫刻通り」を西行し、「西本宿」交差点を左折し、埼玉県道212号岩殿観音南戸森線を1㎞程西行する。埼玉県こども動物自然公園の駐車場が見える「こども動物自然公園」交差点を右折、1.5㎞程先にある綺麗に岩屋観音の参道を進むと、進行方向右手に岩殿熊野神社の鳥居が見えてくる。
岩殿熊野神社正面
この岩殿観音(巌殿山正法寺)の参道は600m程あるのだが、正法寺へ続く道は真っ直ぐ続く門前通りの参道で、道路もただ舗装されているのではなくて、ちょっと洒落た石畳調となっている。更に参道の両側には典型的な門前町を形成していて、嘗ての店や宿坊など屋号の看板があり、門前町としての歴史や昔の賑わいを感じることができる場所である。
『日本歴史地名大系』 「岩殿村」の解説
葛袋(くずぶくろ)村の南西に位置し、村域は岩殿丘陵の中心をなす、なだらかな岩殿山(最高点は物見山一三五・六メートル)の北麓から西麓にかけてを占める。物見山を水源とする九十九川(越辺川支流)が村域を南東流する。松山領に属し(風土記稿)、北西は神戸村、西は本宿村。物見山の北方中腹には坂東三十三所の一〇番札所である正法寺(岩殿観音・岩殿寺)があり、集落は同寺の門前として発達した。西部には小名望月(もちづき)がある。正法寺蔵の元亨二年(一三二二)銘の梵鐘に「武州比企郡 岩殿寺」とみえる。康安元年(一三六一)八月二六日、「ひきのいわとの」の黒河正願が紀州熊野那智山御師村松盛甚に添状(熊野那智大社文書)を送っている。
貞治二年(一三六三)下野の芳賀禅可(高名)は鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、基氏軍と禅可の子高貞・高家の軍勢が苦林(にがばやし)野(現毛呂山町)および岩殿山で戦っている(「鎌倉大日記」生田繁氏蔵、「源威集」東京大学史料編纂所影写本など)。同年一〇月日の中村貞行軍忠状写(集古文書)に「去八月廿六日、武州岩波(殿カ)山御合戦」、同年一一月日の畑野六郎左衛門入道常全軍忠状(畑野静司氏所蔵文書)には「同卅□(日カ)石殿山属当御手候」などとみえ、八月二六日から始まった岩殿山合戦は三〇日まで続き、基氏方の勝利に終わった。
岩殿観音の参道沿い、後方には鬱蒼とした森の中 勾配のある石段を登った山腹に社殿は鎮座
の間から石段や社殿が見えてくる。
岩殿熊野神社は、岩殿山の地主神として養老年中(717~724)に創建した岩殿観音堂とほぼ同時期に創建したものと考えられ、当時天台宗だった岩殿観音堂の影響で、比叡山の地主神である八王子権現社を祀ったのではないかと伝えられている。以來八王子権現社として祀られていたものの、明治維新後の神仏分離令に際して熊野神社と改称したという。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 岩殿村』
八王子權現社
此社は古き鎭座なるにや、下に載たる天正三年上田案獨斎が出せし制札に、岩殿八王子山と見えたり、今も本堂の後を八王子野とも呼べり、
熊野神社 東松山市岩殿一二三九(岩殿字藤井)
岩殿観音堂別当正法寺の縁起は、岩殿山について「旧神仙遊栖ノ地ニシテ遠ク塵境ヲ阻チ玄ニ人跡ヲ絶ノ幽洞ナリ。塁塁壁立シテ四望楼閣ノ如クナレバ土人称シテ岩殿山ト云」と記している。これは比企丘陵の奥深い景勝地にある岩殿山をよく形容していると言えよう。
岩殿山は古代、神々が依り給う盤座として祭祀が行われたと考えられるとともに、高坂を貫流する九十九川の水源に近いことから、水上信仰にも深いかかわりがあったことが想像される。
この岩倉山の北に鎮座し、古来、岩殿山の地主神とされてきた当社は、明治初年までは「八王子権現社」と呼ばれ、その勧請は岩殿観音堂の草創とほぼ同時期と伝えられている。寺伝によると、岩殿観音堂は、養老年中(七一七-二四)、沙門逸海によって創建され、当時は天台宗の寺院(中世、真言宗に改宗)であった。このことは近江国の比叡山延暦寺の法流を継ぐ逸海が比叡山の地主神である八王子権現社(現在の牛尾神社)と、延暦寺の護法神である山王権現社(現在の日吉大社)の二社を寺の創建に併せてこの岩殿に勧請したことが考えられる。ちなみに、比叡山の八王子権現社の霊威は、『梁塵秘抄』に「峰には八王子ぞ恐ろしき」と語られている。
中世、岩殿観音堂は坂東三十三所霊場の札所十番に定められ、その本尊である千手観音詣の人々で栄え、「本坊六十六坊也、関東并北国ニモナラビナキ大ガラン、七堂悉皆カワラブキ也」と言われるほどであった。しかし、永禄年間(一五五八-七〇)の松山合戦の際に兵火に罹り、堂宇ことごとく灰燼に帰した。この時、岩殿山の鎮守である当社をはじめ、山内の諸祠も衰微してしまったのである。
これを再興したのが栄俊で、天正二年(一五七四)、真言宗醍醐寺無量寿院の法流を継いで岩殿山中興の祖となった。当社もまた、これに時を経ずして再建されたものであろう。下って江戸時代、岩殿の観音堂は正法寺が別当として管理するところとなり、当社の祭祀や祈禱は、正法寺の配下で本山派修験の理音院(中の院)によって行われるようになった。
明治に入ると、神仏分離の政府布達を遵守し、当社は社名を熊野神社と改め、理音院は復飾して児玉崖と名乗り、神職となった。歴史的な経緯から考えると、この際、当社は「八王子神社」と改称するのが妥当であり、熊野神社となるのはいささか唐突な感じがしないでもないが、理音院がいわゆる熊野修験であったことを考えると、神職となった児玉崖の意見が強く反映された結果によるものであろう。
なお、明治期からの祭祀は、神前法楽などの仏教色が廃され、元旦祭・新年祭・祈年祭・春祭り・秋祭り・新嘗祭が神職の奉仕により行われている。
「埼玉の神社」より引用
境内社・雷電神社
社殿からの一風景
岩殿山観音堂・正法寺は真言宗智山派の寺院で、岩殿山修善院といい、また、岩殿寺ともいう。
源頼朝の命により、比企能員が復興した古刹であり、天正二年(一五七四年)僧栄俊が中興開山となっている。天正一九年(一五九一年)徳川家康より寺領二五石の朱印地を与えられた。
観音堂は養老年間(七一七~七二四年)僧逸海の創立と伝えられ、正法庵と称し、鎌倉時代に坂東十番の札所となった。千手観音が祭られており、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番とセットされる札所の一つ。
源頼朝の妻、政子の守本尊として信仰が厚かったといわれている。仁王門の仁王は運慶の作といわれている。
当寺には、延暦一〇年(七九一年)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命によって奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治した伝説がある。
なお、正法寺には、県指定史跡の六面幢、県指定歴史資料の銅鐘、市指定歴史資料の鐘楼がある。
表参道から石段を少し登った所にある「巌殿山」の額を掲げた仁王門
仁王門から石段を上り終えた右側にある鐘楼と銅鐘
銅鐘は、元亨2年(1322年)に鋳造されたもので、外面に無数の傷が付いており、これは天正18年(1590年)に豊臣秀吉による関東征伐の際に、山中を引き回した時の傷だと伝えられる。鐘楼は、元禄15年(1702年)に比企郡野本村(現在の東松山市野本)の山田茂兵衛の寄進で建立されたと伝えられる草葺き屋根の建物で東松山市内では最も古い建造物として、東松山市有形文化財に指定されている。
観音堂
養老年間の創建と伝える。寛永、天明、明治と3回再建され、現在の建物は明治11年(1871年)の火災により観音堂が焼失した為、翌年高麗村白子(現飯能市)の長念寺から移築されたものである。本尊の千手観音は、室町時代の作と伝えられる。
東松山市指定天然記念物の大イチョウ
仁王門から東にまっすぐに延びる表参道の両脇には家が建ち並んでおり、
嘗ての正法寺と門前町の繁栄の面影を残している風景である。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典」
「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等