寺尾諏訪神社
この地域北方には、「飯塚・招木古墳群」があり、荒川左岸の寺尾地域の河岸段丘上、飯塚地区に73基、招木地区に53基の古墳が展開する秩父地方最大の群集墳である。径5〜27m、高さ1〜4mの円墳で構成されるが、方墳が存在する可能性もあるという。
秩父地方でも早くから開発されていた地域の一つであったのであろう。
・所在地 埼玉県秩父市寺尾1907
・ご祭神 建御名方神
・社 格 旧村社
・例祭等 元旦祭 稲荷祭 2月第2日曜日 例大祭 4月第4日曜日
秋祭り 9月第3日曜日 大祓・焼却祭 大晦日
中蒔田椋神社から国道299号線を南方向に1.2㎞程進むと、進行方向左側下方に寺尾諏訪神社が丁度背を向けているような姿で見えてくる。そのため、一旦社を通り過ぎて回り込むように進み、「JAちちぶ農業協同組合 秩父西支店」がある路地を曲がり、どうにか社の正面にたどり着くことができた。
社は斜面上の丘陵地面を背にして、東向きの日当たりの良い場所に鎮座。正面から見る境内は、社殿の回りを覆う社叢林といい、石段上に鎮座する社の姿といい、その景観は大変見ごたえがある。
寺尾諏訪神社 社号標柱
『日本歴史地名大系』 「寺尾村」の解説
大宮郷の北西に位置し、村域は荒川左岸に沿って南北に長く展開する。南は別所村。東は荒川を境に大野原村など。北西は蒔田村、南西は田村郷。秩父巡礼道は対岸の大宮郷から梁場(やなば)渡を経て村内に入り、小鹿坂(おがさか)峠を越え、田村郷へと向かった。
往古、地内に七堂伽藍を有する名刹があり、この寺の前後に村落をなしていたのが地名の由来と伝える(秩父志)。縄文時代前期・中期の岩陰遺跡がある。現島根県大田市南八幡宮蔵の大永二年(一五二二)銘の経筒に「寺尾住海□(秀カ)」などとの陰刻がある。田園簿に村名がみえ、高四六二石余・此永九二貫四一九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高七五三石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合村々取調書では旗本三氏の相給。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田二七町八反余、畑一七三町一反余で、用水は村内の溜井や渓流から取水。「風土記稿」によると農耕の合間に男は薪とり、女は養蚕や機織などをしていた。
社号標柱の先には境内に続く長い参道があり、途中に木製の重厚感ある一の鳥居が見えてくる(写真左)。一の鳥居を過ぎて200m程ある参道(同右)の先に二の鳥居、及び境内が見える。
長い参道の先に見える石製の二の鳥居
境内は程よく日光を一身に浴び、また石段上に鎮座する社殿、それを覆う社叢林との景観が眩いばかりに美しく感じた。 周辺の手入れも行き届いている様子。
境内から石段上の社殿を見る。
石段の手前で左側に嶋名鰐が巻かれ祀られている 石段手前で右側には社の案内板あり。
所謂磐座であろうか。
諏訪神社 御由緒 秩父市寺尾一九〇七
◇寺尾は日当たりの良い土地
寺尾は長尾根丘陵の東側の山麓に開けた農業地帯である。『秩父志』には「此村日ノ照ラスコト早ク...日照尾ト称へシヲ、後二寺尾ノ字ヲ書シ...」と載っている。
社記に「当社の創建は後三条天皇延久三年(一〇七一)とし、「天正十八年(一五九〇)時の領主鉢形城北条氏邦敗北し、家臣この地に落居して農を営み当社を再興」とある。社蔵文書の中に次の札があり、再建の年代や社僧等が知られる。
「慶安三寅年造立ノ本社去ル明和戌年極年晦日ニ炎上イタシ候ニ付此度地主村役人氏子中寄合ノ砌取極仕是迠ノ通り社僧観音寺領御頼置等ニ而世話人相立御営造立出来仕候為後日氏子中立ち合い書残置申候以上 明和四亥年五日」
明治五年(一九〇八)に村社となり、同四十一年(一九〇八)には舞台谷戶の寺尾大神社、永田の諏訪神社、塩谷の諏訪神社を合祀している。境內社の稲荷社は天明三年(一七八三)、蚕影社は同七年(一七八七)、產泰社は明治七年(一八七四)の勧請である。(以下略)
案内板より引用
石段下からの眺め
拝 殿
案内板には「天正十八年(一五九〇)時の領主鉢形城北条氏邦敗北し、家臣この地に落居して農を営み当社を再興」とあるのだが、「秩父志」には「寺尾村、此村の内永田と云う所あり、今に南方に土手並門の跡ありて、土手の下涅跡は田となれり。鉢形城家士の内に寺尾彦三郎なる者あり。此地つづき一丁ばかり北に寺尾明神の祠を有せり」との記述がる。
秩父誌に載せられている「寺尾彦三郎」という人物は、おそらくこの寺尾村出身の人物であろう。武蔵七党・丹党出身かもしれない。また鉢形城家士であったというのだが、案内板にも天正18年の小田原の役以降に土着した人物は鉢形城家臣であったという。この両者は同人物であったのであろうか。
拝殿向拝部、木鼻部等の精巧な彫刻 拝殿に掲げてある扁額にも精巧な彫刻が
施されている。
本 殿
社殿の左側に祀られている境内社・稲荷社(写真左・石段上写真は右側)
社殿右側に祀られている境内社・合祀社 その手前に設置されている境内碑
境内碑
昭和五十年一月氏子の総意により社殿改修を議決し本殿並びに拜殿を銅板葺とし玉垣 末社を改造しなを境内の排水整備をなすことになり其資金とし社有林及び氏子崇敬者の志納金を以ってこれに充て工事を秩父市山田坂本才一郎に土木工事を当所引間又吉に依頼し同年十一月着工し抑年二月完成を見た次第であります
ここに面目を新たにし神社の興隆と発展を祈念して記念碑を建立し永く後世に傳えんとするものであります
昭和五十一丙辰年四月吉日(以下略)
境内にある「拝殿改造碑」とご神木(写真左・右)
社殿から見た境内の一風景
写真中央は神楽殿か。右側には武甲山が見える。秩父には欠かせない聖なる山だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」
「境内案内板」等