今泉八幡神社
・所在地 埼玉県羽生市今泉265
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧今泉村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 春の例祭 4月14・15日 秋の例祭 10月14・15日
羽生市東側に位置する弥勒地域に鎮座する長良神社の南側には埼玉県道60号羽生外野栗橋線が東西に走り、東北受動車道を越えて1.3㎞程西行した進行方向右手に今泉八幡神社は鎮座している。
県道沿いに鎮座する今泉八幡神社
『日本歴史地名大系』 「今泉村」の解説
上羽生村・町場村から東に連なる洪積世のローム台地が沖積世すれすれまで沈下した埋没台地上に位置する。西隣の喜右衛門(きうえもん)新田村、前原村(古くは二十一人方村)はもとは当村の枝郷であった。当村の名主家である斎藤家の祖先は斎藤民部盛秋と称し、上杉謙信に仕えたが、近世以降土着して長男が当村名主となり、次男喜右衛門が今泉新田を開いたという(風土記稿)。同新田は寛永六年(一六二九)に独立して喜右衛門新田村となり、二十一人方村も化政期までには分れて前原村となったとされる(同書)。
『日本歴史地名大系』 「前原村」の解説
今泉村の南に連なる。古くは「二十一人方村」と称し今泉村の枝郷であった(風土記稿)。田園簿によると田高一三二石余・畑高一一九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本七家の相給。享保一七年(一七三二)からと考えられるが一部が下野足利藩領となり、宝暦五年(一七五五)の同藩領村々明細帳(安田家文書)には前原村とみえる。同帳によると承応三年(一六五四)幕府領代官による検地があった。宝暦五年の高二二七石余、反別は田方一四町一反余・畑屋敷二一町三反余。
『新編武蔵風土記稿 前原村』
前原村は正保の鄕帳國圖等に廿壱人方村と出し、元祿の改には今の名に改めて、側に古は廿壱人方村今泉村の枝鄕と記したれば、全く一村となりしは近き年のことヽ見えたり、
参道の様子
当社は大字今泉が氏子区域であり、大きく今泉と前原に分かれていて、今泉は前西原・後西原・大口・北新田・外の内・夏見の六耕地に、前原は北前原・南前原の二耕地に分かれている。前原は江戸期の万治年間に今泉村から分村したが、明治八年に再び合併となったため、「分かれ組」と呼ばれている。
嘗ての今泉村は、戦国時代に上杉謙信の命によって越後より羽生城に派遣されていた家臣の斎藤盛秋が、後北條氏や成田氏の攻撃で守備していた羽生城が陥落したため、この地で帰農し、その後、盛秋の長男である内左衛門が開基となって天正年間に創建された「曹洞宗鷲泉山長光寺」があり、内左衛門は後に今泉村の名主となっている。
因みに内左衛門の弟は喜右衛門で、この人物は隣村を開発し、当初は「今泉新田」という名であったが、そののち「喜右衛門新田」と改めたという。(詳しくは喜右衛門新田八幡神社を参照)。
謙信は上杉憲政より関東管領職を譲られたことにより関東地方領有の大義名分を得て、憲政を追い出した後北條氏と激しく戦うようになった。その過程で、上杉軍の一部の将兵は故郷の越後よりも温暖な武蔵の地を気に入り、土着する者もいた。斉藤家もそうした一族であったようだ。
社の散策の中で、このような地域の歴史を感じることは大変意義深いことだ。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
八幡社 村民の持 〇熊野社 長光寺持
長光寺 禅宗曹洞派、藤井村源長寺の末、鷲泉山と號す、慶安二年寺領二十石六斗餘の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、又毘首羯磨の作と云傳る觀音あり、元は別に堂ありしと云、開山德巖正道元和三年八月二十六日寂す、是本山第三世の僧なり、開基は古へ名主を勤し內左衞門と云ものにて、寬永十年六月九日死す、此家今は廢せり、前村喜右衞門新田を開きし喜右衞門は、卽ち此弟にて、家の由緖等は前村ニ辨じたれば、合せ見るべし、 藥師堂 定朝が作れる藥師を安ぜり、祕佛とす、白山社 金毘羅秋葉天神を合社とす 鐘樓 正德二年鑄造の鐘をかく、
八幡神社 羽生市今泉二六五(今泉字大口)
市の東部の農業地域である今泉に鎮座する当社は、戦国時代、忍領主成田氏長により、当社の南にある曹洞宗鷲泉山長光寺と共に、文禄二年四月に創建されたと伝えられる。
祭神は誉田別命で神体は金幣を祀っている。また神宝として、今泉と前原の氏子が、金を出し合って作らせたと伝える騎乗八幡神像と同像を画いた御影軸がある。神像の台座には、製作年紀・寄進者などの記載があったというが、最近塗り直した折、記録せずに神像と台座を張り付けてしまったために、これらについては現在知り得ない。このほか寛文九年・宝永二年・元文元年・安永二年・文化六年・天保七年・明治三三年に鳥居が建て替えられたことが、昭和二年の『鳥居新築表』に載る。古くから村の鎮守として祀られている当社は、明治六年に村社になり、更にそれまで八幡社と号していたものを八幡神社と改めた。
明治期の『神社書上げ』には、伊奈利神社二社と熊野社が合祀されているが、現在これらは当社にはなく各耕地に戻っている。
また、近年になって北新田の秋葉神社が境内へ合祀され、耕地の祭りも、境内で行うようになっている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額 社殿の左側にある「八幡神社新築記念之碑」
八幡神社新築記念之碑
当社八幡神社は戦国時代 忍領主成田氏長により文禄二年四月創建されたと伝えられる。祭神は誉田別尊で御神体は金幣を祀っている又神宝として今泉と前原の氏子が金を出し合って作らせたと伝えられる騎乗八幡神像と同像を描いた御影軸がある。大勢の先人氏子の宗敬の念厚く区民の守護神として祀られ幾重なる新改築を重ねながら護持继承されて参りました。此の度社殿の老朽化が進み区民氏子の総意と協力を得てこゝに新築整備がなったのであります。(以下略)
社殿左側に祀られている境内社・秋葉社
その右側に祀られている社は三峰社であろうか。
秋葉社は、今泉地域の北新田耕地で祀られている社で、近年合祀されたのだが、3月25日の梵天揚げ、11月18日は秋葉様のお祭りが、境内で行われているという。
秋葉社改築記念の碑が設置されている。
秋葉社改築記念の碑
秋葉社には火伏せの神が祭られている。御本尊は三尺坊権現で信濃に生まれ、幼少の頃から聡明で七歳にして僧侶となり広く学問を修め後に神通を得、秋葉寺を開創する。
静岡県の可睡寺に建立されている総本殿の碑によれば、「西暦七二〇年頃、行基菩薩が大登山霊雲院という寺を創立し、その後八〇八年項三尺坊神通力を得てこの寺に出現したので改めて秋葉山秋葉寺と名付けられた」と記されている。御本尊は鎮防火燭火伏せの神仙として尊ばれ各地に祭られている。当秋葉社もその一つである。
この度、社殿老朽化に伴い北新田地区総意のもとに改築整備がなった。ここに記念として概要を記す。(以下略)
秋葉社の左側奥に並んで祀られている石碑類
左より青面金剛像 (庚申塔)・庚申塔・三山秩父西国坂東巡礼供養塔(*「埼玉の神社」を参考)・(?)。但し写真には写っていないが、青面金剛像の左並びには道陸神の石碑、右端に地荒神の石碑も祀られている。
静かに佇む社の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内記念碑文」等
