蓮谷稲荷神社
さらに、行基が船でこの地を訪れたとする記述が着目される。現在でも百間地域には川島・平島・松の木島といった小名が残っており、周囲が川に囲まれていたことが容易に想像できる。また、百間の字逆井(あざさかさい)も、その語源は「百間記」によれば、若狭国からの船着場があり、その船頭が井戸を掘ったことに由来すると云う。古代には「万葉集」に「埼玉の津」がうたわれていることもあり、百間の地が古来から利根川水上交通の要所であったことがうかがえよう。
一方、『埼玉県地名誌』では、アイヌ語との関連記述があり、「百間の名は湖沼よりおこるとみられる。マがアイヌ語の湖沼の意であることは柳田国男氏がすでに指摘したところである。(中略)北海道地名の紋別(モンベツ)のモンはアイヌ語の「モ」、静かなの意である(「地名アイヌ語小辞典」)。このように解するとき紋別が静かな川であるのに対して、百間は静かに水をたたえた沼の意となろう。」と載せている。
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町百間1093
・ご祭神 宇迦之御魂命
・社 格 旧蓮谷村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 2月初午祭 例祭 7月22日 お日持 10月19日
宮代町役場の南側で、東武動物公園東園門や宮代町立笠原小学校のすぐ北側に鎮座している。当地はかつて蓮谷村として一村であったが、明治22年に百間村大字蓮谷となり、続いて昭和5年の大字の廃止に伴い、字百間に含まれた。この旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形であるという。
蓮谷稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「蓮谷(はすや)村」の解説
百間村の北西、古利根川右岸に沿って位置。南部を姫宮落堀川が流れ、台地と低地が錯綜している。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。田園簿によると田高六八石余・畑高三四石余、旗本水野領。元禄三年(一六九〇)代官八木仁兵衛長信らにより検地が実施された(風土記稿)。
参道左側にある皇太神宮参拝記念碑と力石 参道左側には三基の記念碑等がある。
真ん中には「新築記念」の石碑
新築記念
蓮谷稲荷神社の創建年代は詳かでないが樹齢凡そ五百年の神
木があった事でも古くから当地の鎮守であったと推定される
明和三年に神階を授けられたが旧社殿はその頃の建設であろ
う之は年を経たので朽損しておった たまたま境内の巨松が
枯損した際に之を資材として改築の議が起り氏子一同が協賛
して数年間資金を蓄積し労力を奉仕して遂に総工費金五拾萬
圓を以て瓦葺の神殿拜殿を完成し旧観を一新した之は神徳の
加護によって平和な郷土を築こうとする努力の結晶である
工事は総務鈴木清吉吉岡勇吉会計加藤佑輔補佐加藤旭委員
加藤平次郎加藤豫鈴木相三が担当した 茲に父祖三代に亘り
て奉仕する宮司服部誠一欣然文を作りて書く
蓮谷では、毎年米一俵、麦一俵と一〇年間くらい積み立てをして、積み立てをした全員で伊勢講を行ったものである。近年では、昭和二五年や昭和四五年に伊勢講で伊勢参りをしている。こうした伊勢参りをしてくると、記念として蓮谷の鎮守・稲荷神社に常夜灯や敷石、石碑などを奉納するものであった。現在、稲荷神社境内には、嘉永五年四月吉祥日建立の常夜灯があるが、これには「伊勢太々連」と刻まれている。これは、伊勢講による参宮記念の奉納物とみられる。また、昭和五年一二月二六日建立の伊勢太々記念碑もある。これによると、参宮は大正七年二月一五日に行われ、その後昭和三年二月一〇日、稲荷神社に敷石一七枚を奉納したことが刻まれている。
昭和二五年の伊勢講は、昔ながらの伊勢講で、旅行会社などを頼らずに一〇日~二〇日くらいの旅をした。行き先は伊勢だけでなく、お金の続く限り、旅を続けたもので、関西を皮切りに九州の別府まで行って帰ってきたという。これに対して、昭和四五年の伊勢講は、旅行会社に手配をしてもらったもので、それでも四国を一廻りしてきたという。なお、この昭和四五年の伊勢講の際の「皇太神宮参拝記念」の碑が鎮守の稲荷神社境内にある。
拝 殿
拝殿に掲げてある社の由緒が記述されている奉納額
蓮谷稲荷神社 南埼玉郡宮代町百間一〇九二鎮座
祭神 宇迦之御魂神 (穀物の神)(稲の精霊)
縁起
旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形である。当社の鎮座地は姫宮落川の北の辺りの低地で、現在は東武動物公園の駐車場や民家に囲まれているが、かつてこの地は笠原沼を開拓した水田地帯であった。
当社は「風土記稿」蓮谷村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、村民持」とあり、その創建については二つの説がある。
一説は口碑によるもので、豊臣家の家臣であった加藤外記(加藤壽一家の祖)が大阪城落城の後、京都の伏見稲荷神社の分霊を自らの守護神として受け、当地まで落ち延び帰農して開拓するに当たり、その守護神を作神として祀ったという。もう一説は「明細帳」によるもので、元禄三年(一六九〇)に伏見稲荷神社の分霊を遷し祀ったという。村の草分けである加藤家の子孫は、江戸時代を通じて村の名主であった。当社は初め加藤家の氏神として江戸の初期に創建されたが、その後、村人から厚く信仰されるようになったため、村の鎮守として祀るために元禄三年に再勧請されたのであろう。
当社は更に明和三年(一七六六)に名主の加藤平右衛門が願主となり、伏見稲荷神社から「正一位稲荷大明神」の神璽を拝受した。当社は明治六年に村社に列した、
信仰
祭事は元旦祭、二月の初午祭、七月二十二日の例祭、十月十九日のお日持の年四回である。初午祭は昭和三十年頃までは三月に行われていた。その当時は小学生の子供たちが朝から各戸を回り「油っこください」と言ってお金を集め、灯油の油、お供え、食料を買い、神前に明かりを灯し、「お籠り」と称して拝殿に一晩泊まり込んだ。翌朝は朝早くから大人たちが参拝し、赤飯や五目飯を供え、子どもたちはそれを食べて学校へ行った。現在は火災等の心配から行われていない。
掲示板より引用
社殿の左側奥に祀られている雷電宮 鳥居を過ぎたすぐ右側に祀られている天満宮
蓮谷の稲荷神社の境内には、雷電社がある。この雷電社では、特に祭りは行われないが、雷電様の祠を沼の水で洗うと雨が降るという。昔、雨が降らないので、笠原沼の船着き堀に雷電様を落として見つからなくなってしまった。すると雨が降りすぎて困ったという。その後掘上田で土を上げていて、見つかったとのこと。
さ殿から見た境内の様子
社の右手に祀られている庚申様
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
