本町八雲神社
・所在地 埼玉県東松山市本町1—5—8
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧無格社
・例祭等 例祭(天王祭) 7月最終土・日曜日
東松山市役所の東側で、本町地域を南北に縦断する埼玉県道66号行田東松山線沿いで、「上沼公園」交差点を直進し、松山宿上宿(上町)の上沼公園を過ぎたすぐ右手に社は鎮座している。
旧松山宿の総鎮守として創建された氷川神社(現在は松山神社に改称)の末社として、安政6年(1859)再建のために金品を募り、明治7年(1874)に再建されたという。
県道沿いに鎮座する本町八雲神社
『日本歴史地名大系』 「松山町」の解説
現市域の中央やや東寄り、東松山台地上にあり、北部・東部は市野川低地、南部は都幾川低地によって区切られる。東は根小屋(ねごや)村・流川村(現吉見町)、西は石橋村、羽尾村(現滑川町)、南は柏崎村・野本村、北は市ノ川村・平村・野田村。古くから交通の要地で、中世には松山本郷とよばれていた。戦国期には、武蔵八王子・河越、岩付(現岩槻市)などと鉢形(現寄居町)や秩父地方・上野国方面とを結ぶ街道の宿駅、また東方に位置した松山城(現吉見町)の城下として発達し、町場も形成されていた。慶長五年(一六〇〇)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、引続き日光脇往還・川越秩父道の宿場町として賑いをみせ、江戸時代も比企郡域の商業・交通の中心地であった。
正面一の鳥居より撮影
鳥居前には鉄鎖が張られ中に入りにくい雰囲気がある。
現在の市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、元を辿れば1333年に上杉氏麾下の上田友直によって築城されたとされる松山城の城下町として発展した街である。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。室町時代から戦国時代にかけて扇谷上杉氏が松山城一帯を支配するが、上杉朝定が川越夜戦で敗死すると、松山一帯は北條氏の領土となる。
慶長5年(1600)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、江戸幕府によって五街道と脇往還といった主要道路の整備が進められ、当市域でも、八王子から日光に至る日光脇往還道の宿場として松山宿と高坂宿が八王子千人同心によって整備され、また江戸から上州に至る川越児玉往還(川越道)の宿場として高坂宿が江戸幕府・川越藩合同によって整備され、その中でも川越・熊谷を結ぶ「本町通り」が商業の中心地として、発展し栄えた。
現在の埼玉県道66号線沿いの「上沼・下沼」区間に「本町通り」を形成し、江戸時代から明治・大正・昭和30年代後半まで、中心的な役割を担ってきた商店街として、現在でもその町並みはその面影を留めていて、大正・昭和初期は全盛期であったという。
市指定文化財の本町八雲神社社殿
指定年月日 昭和32年11月29日
本殿保護のため屋根を掛けて保存が図られているようだが、
周囲からの風雨や車両の排煙等に晒されてしまっていて、その点だけはやや残念。
八雲神社由来書
『新編武蔵風土記稿 松山町』
天王社 眞福寺持
眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
『埼玉の神社 日吉松山神社』
八雲神社は、無格社であったのを大正三年一月十九日当社の境内社に編入したもので、市の文化財にも指定されているその社殿は、天保六年(一八三五)の再建時に河原明戸(熊谷市)の棟梁飯田仙之助とその弟子が精魂込めて造り上げたものであるという。
八雲神社 市指定文化財
社殿は、間口二・六m、奥行三・六m単層切妻で正面軒は唐破風となり、その下に千鳥破風がおいてあります。社殿は切妻の面もすべて彫刻で飾られています。正面は花鳥及竜と唐獅子・左側は神功皇后新羅征伐凱旋の場、右側は須佐之男命大蛇退治の場、背面は天照大神の天岩戸の場が刻まれています。
他の神社の彫刻と異なり、伝統的なものに取材し、豊かな民俗的色彩を有する特色をもっています。
昭和三十三年一月 境内より左記の銘文が発見されました。
惟時安政六年四月奉再勧進者也
法王祈願現住権律師亮覚敬白
祇園牛頭天王
この彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助が三人の弟子に技を競わせたものといわれています。 案内板より引用
境内の様子
この神社は元「天王社」と称し祇園牛頭天王を祀っていて、その後の明治期の神仏分離で八雲神社に改められているのだが、当初筆者はご祭神を素戔嗚尊であろうと普通に考えていたのだが、調べてみると、なぜか祭神が倉稲魂命というのが興味深い。
どのような経緯でご祭神が倉稲魂命となったのか、知っている方がいるのであれば、是非ともご教示願いたく思います。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内案内板」等
