境保泉勝山神社
・所在地 群馬県伊勢崎市境保泉346
・ご祭神 速須佐之男命
・社 格 旧村社
・上野国神名帳 佐位郡 従四位穂積明神
伊勢崎市保泉地域は、南千木町地域の南側にあり、広瀬川と粕川の両河川が合流する付近に位置する平坦な地である。途中までの経路は馬見塚町飯玉神社を参照。群馬県道142号綿貫篠塚線を1.5㎞程東行した先の丁字路を左折、その後広瀬川に架かる「豊東橋」を越える。周囲一面田畑風景の続く長閑な道路を北上すると、進行方向正面に境保泉勝山神社の社叢林が見えてくる。
境保泉勝山神社正面
『日本歴史地名大系』 「保泉村」の解説
粕川右岸、上武士村の西に位置し、平坦地。広瀬川が南方を東流。和銅年間(七〇八―七一五)穂積親王が東征のとき村に駐在したことにちなみ、穂積村と名付け、のちに改字したと伝える(佐波郡誌)。「松陰私語」に戦場として「穂積」「穂積原」とみえる。寛永二年(一六二五)「勢田郡穂積村」内一三石余が野々山新兵衛尉に与えられた(記録御用所本古文書)。
『群馬県佐波郡誌』
村社 勝山神社
祭神速須佐之男命 配祀神七柱 大字保泉に在り往昔元明天皇和銅年間、穂積親王當國統治の爲此の地に御駐在あらせられし時常に天照大神戔素男命の二神を尊崇すること厚きに依り鄕民謀りて其の址に祠宇を建設し勝山大明神と稱したのである本國帳に佐位從四位穂積明神とあるは即ち之てあらう明治十年村社に列した其の他の祭神は明治四十年合祀したものである。氏子百二十戸
『境町の民俗HP』保泉村の概要
往昔穂積親王の統べ給う地とし、その陵墓ありというが明らかでない。天正年間穂積を保泉とし江戸時代松平、新見、杉山氏の三給地、村高三六二石余。
一の鳥居を過ぎた先にある唐金(からかね)の鳥居
保泉地域には、「優れたものが二つあり、四九郎先生(鈴木広川)に唐金の鳥居」という唄が歌われていて、この「唐金の鳥居」が勝山神社の鳥居である。勝山神社の鳥居は、「唐金」つまり『銅』で出来ていて、江戸時代の中期1769(明和6)年5月、鋳物の産地野州佐野の鋳物師崎山五左衛門によって造られ、村の有志によって奉納されたという。
参道の左側に一列に並ぶ石灯籠 石灯籠に並列し祭られている石祠四基
拝 殿
拝殿向拝部等の彫刻
向拝部の奥には木製の由緒書きがある(但し薄すぎて読みとれない場所は○)
村社 勝山神社
當社ハ往昔元明天皇ノ御宇和銅年間大政官事一品穂積親王此ノ地二御駐○生マセシコトアリ親王常二○○大神竝素盞鳴命ノ二神ヲ尊信シテ守護神トナセリ御○○○○○ノ跡二社宇ヲ創建ス上野国神名帳二佐位郡○四位上穂積明神トアルハ即チ當社ナリ此ノ地○○○ト書キシモ後保泉ノ字ヲ用フルニ至レリ社名モ穂積明神○改メ現在ハ勝山神社ト称ス土民ノ崇敬厚クシテ祭○○ルナシ明治十年村社二列セラル明治四十年○○六日合祀ノ許可ヲ得テ字宮前二五六番二祭祀セル○○○○○八幡宮白山神社(以下解読不能)
元明天皇の御代の和銅年間(708~715)、皇子の大政官事一品穂積親王が東征のときに当地に駐連し、皇子が常に尊崇していた天祖天照大御神と素盞鳴命を奉祀し、東征成就を祈願されたという。その跡に郷民が相談して社殿を造営し、二柱の大神を勝山大明神と崇め祭ったのが、当社の起源とされている。上野国神名帳に「従四位穂積明神」と記されるのが当社であるという。
拝殿には弥勒寺音次郎の造営といわれ、格天井には江戸時代島村の南画家金井烏洲が描いた絵が飾られている。格天井は45面からなり、各面には花(椿・牡丹など)、鳥(孔雀・雀など)、動物(兎・虎など)、人物(中国故事の太公望など)が描かれていて、作品が描かれてから180年程たった今も、鮮やかな色彩が残されている。
*金井烏洲は寛政8年(1796)~安政4年(1857)。現境島村の金井文八郎(華竹庵万古)の次男に生まれる。江戸時代後期の南宗画家。 烏洲は号で時敏、のちに泰、字は子修また林学、通称左仲太のちに彦兵衛と称した。来遊した春木南湖に就いて画を学び、江戸に出て谷文晁を師友とし、関東南画家の一人として名を成した。上野国白井双林寺、前橋龍海院などの大画面障壁画も製作した。一方学問を好み、詩文もした。
菅井梅関、篠崎小竹らとも交流があった。嘉永6年(1853)日光に避暑、その間に執筆した「無声詩話」の著者としても有名である。最晩年は生家呑山楼に書画三昧の生活を送った。
安政4年(1857)1月14日、62歳で没した。「赤壁夜遊図」は伊勢崎市重要文化財になっており、「金井烏洲と一族の墓」は群馬県指定史跡になっている。
拝殿奥には張り出した部があり、左右それぞれ注連縄があり、本殿内に合祀されている社のように見える。この写真は拝殿奥左側に祀られている稲荷神社。
また稲荷神社正面入口の右側には「木組み灯籠」と呼ばれる木製の灯籠が見える。通常灯籠は、石や鉄で作られているが、勝山神社の灯籠は木材を精巧に組合せて作った「木組み灯籠」で、現在1対2基が残っていて、その側面には見事な彫刻が施されている。この灯籠の作者は、下渕名の宮大工弥勒寺音次郎で、音次郎は彫技に優れ太田の冠稲荷社などの寺社彫刻を沢山手掛けているという。
*弥勒寺音次郎(1796~1869)は、赤城神社本殿(境平塚)、冠稲荷聖天宮(太田市細谷)などの彫刻を手がけ、息子の音八(1821~1887)は、父とともにこれらの造営に関わり、茨城県の笠間稲荷神社本殿の造営にも関与した。音次郎の墓は弟子が建立し、正面に法号「棟梁院立太柱宮居士」が刻まれる。その後ろに音八夫妻の墓があり、「霞松院梅翁彫聲居士」とある。
本殿奥に祀られている石祠群。一番左側には天手長男大神が祭られている。
社の北側に建つ鳥居
北側鳥居の近くには「金井烏洲天井絵」と書かれた案内標柱があったが撮影しなかった。
庚申塔の建立は、江戸時代初期(寛永期以降)頃から日本国中で広く行われるようになったという。仏教では、庚申の本尊は青面金剛、神道では猿田彦神とされた。また、庚申塔は街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあったという。
但し明治期になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて、街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進められた。この社のように残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転させられたりするケースも多い(写真左・右)。
境内東側にも設置されている鳥居 東側鳥居の近くにある金毘羅大権現の石碑
境保泉勝山神社遠景
参考資料「群馬県佐波郡誌」「境町の民俗HP」「日本歴史地名大系」「伊勢崎市HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内由緒案内板」等
