古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下武士三社神社


        
               
・所在地 群馬県伊勢崎市境下武士1055
             ・ご祭神 大日孁命   天児屋根命  誉田別命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 歳旦祭 春季例祭 4月吉日 秋季例祭 7月吉日
                  例大祭(陰陽額御開帳) 1123日 他
 当社が鎮座する下武士地域は、上武士地域の南東に位置し、ほぼ平坦地ではあるが嘗て古利根川と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の緩やかな起伏地帯も多い地域である。
 境保泉勝山神社から東方向に進行し、粕川に架かる「粕川橋」を越え500m程先の十字路を左折し、そのまま北上すると武士神社に到るが、今回は十字路を左折せずにそのまま直進、700m程先の十字路を右折すると下武士西区会館が、そして隣接するように下武士三社神社の鳥居と広い境内が見えてくる。
        
                 下武士三社神社正面
『日本歴史地名大系』 「下武士村」の解説
 上武士村の東南に位置し、広瀬川が南端を東流する。ほぼ平坦地ではあるが緩やかな起伏地帯も多い。明治頃まで古墳が多く残り、優れた形象埴輪を出土。日光例幣使街道は那波郡柴宿(現伊勢崎市)から武士渡(竹石渡)で広瀬川を渡り、当村内を抜けて隣接する境町(宿)に達する。古くは上武士村と一村で慶長(一五九六〜一六一五)の頃二ヵ村に分れたという(佐波郡誌)。「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)四月二八日条などに下武士とみえる。寛文郷帳では高四〇〇石で畑方のみ、旗本加藤・宮崎領の二給。近世後期の御改革組合村高帳では上総一宮藩領、旗本加藤・宮崎領の三給、家数二二三。
        
          参道の先には石段がありその石段上に二の鳥居が建つ。
 群馬県には、3,500余の古墳があるが、その内の約1,000基は伊勢崎市に存在する。下武士三社神社の基礎部となっている土台も三社神社古墳(前方後円墳 全長54.5m 後円部高さ6.3m 前方部高さ3.6m)」と呼ばれ、本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、6世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた中規模の前方後円墳という。
        
                    拝 殿
        
          境内に設置されている「三社神社神殿 新築記念碑」
 三社神社
 鎮座地 伊勢崎市境下武士一○五五番地
     旧上野国佐位郡下武士村大神一○五五
 主祭神 天児屋根命
     誉田別命
     大日孁命
 配祀神 須佐之男命 菅原道眞命 倉稲魂命 火産霊命
 境内社 八坂神社  菅原神社  稲荷神社 秋葉神社
 社殿新築にあたり
 当社が鎮座する地域は、かつて比刀禰川(古利根川)と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の小丘が累々としていた。
 このような場所ではあるが、縄文時代には、石器加工の場など、人の営為の痕跡が僅か見るかっている。その後、五世紀終末から六世紀には、前方後円墳五基を含む八十数基もの古墳群が築造された。一方、境剛志小学校から北にかけては、その集落跡が発見されている。当社が鎮座する「三社神社古墳」は、本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、六世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた前方後円墳である。このように、この地域は古墳時代には伊勢崎地域でも有数な地域であったと考えられる。 社伝によると、武士は古代から栄えた土地であった。当社が鎮座する高台は、かつて通称五郎助峠と呼ばれ、後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186)鎌倉幕府を樹立した源頼朝の有力御家人である安達藤九老盛長の子、景盛が上野国守護人として、この地で武を練ったことから「武士」と呼ばれ始めたという。その際、領地の安全を神明に祈願し、神社を奉祀したのが三社神社の始まりであると云う。また村を縦貫する「日光例幣使道から三丁ほど引っ込んだ字大神に村中が見渡せる高台に三社宮が鎮守している」と古い記録にある。
 このように、当社は、古くから下武士村の鎮守として位置し、永く村民から尊崇されてきた。
 明治維新後、社寺併合により、明治十年(1877)下武士村の村社に格付けられた。同四十年に、近傍の四社を合祀した際、村民によって本殿が大改築された。
 それから九十有余年、建立から二百五十年を経過し、本殿、拝殿ともに老朽化が著しいため、境下武士の氏子が神社改修を図り、平成十五年(2003
)に「三社神社奉賛会建設委員会」を設立した(以下略) 記念碑文より引用
        
                    本 殿
『群馬県佐波郡誌 剛志村』
 村社 三社神社
 祭神誉田別命 大日孁命  天児屋根命  配祀神三柱 大字下武士に在り後鳥羽天皇の御宇文治二年七月源頼朝の臣安達盛長の子景盛上野の守護たるに依りて此の地に來り武を練り神明に祈願し領土の安全を祈つたと謂ふ其の後民産土の神と崇めて祭祀怠りなく明治十年村社に列せられたのてある氏子数二百四十七戸

 
     社殿裏に祀られている石祠          参道右側にある八坂神社神輿殿
     一番左側にある双体道祖神

     境内社・正一位稲荷大明神         稲荷大明神の並びにある石祠等
                       左より猿田彦大神・神社昇格紀年・千勝○等
        
                境内に設置されている案内板 
 三社神社
 由緒
 当社は縄文狩猟時代の住居跡が散在し武士古墳群と稱され多数の古墳地帯で縄文時代・弥生時代より栄えた土地であった村の中央高台通稱五郎助峠・東前方考円墳の前地に後鳥羽上皇の御代・文治二年一一八六年七月総追捕使源頼朝の臣安達藤九郎盛長の子・景盛が上野の守護として此の地に赴き武を練った時神明に領土の安全と郷民の安泰を祈願して奉祀したと伝えられている。
       
                  社殿からの一風景


参考資料群馬県佐波郡誌境町の民俗HP」日本歴史地名大系伊勢崎市HP
        「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内由緒案内板」等  


           

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