古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

国納雷電神社


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町国納3422
             ・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧国納村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祭礼 125日 春の祭礼 417日 夏の祭礼 725
                  秋の祭礼 109
 東武伊勢崎線和戸駅の西側近くに鎮座する。社殿のすぐ後ろには東武伊勢崎線の線路が見え、駅からも直線距離で200mもないほど近いため、電車も比較的多く走っているのだが、不思議と社との違和感はなく、むしろ趣ある雰囲気を醸し出している。加えて、社殿を含む境内が備前堀川右岸の河川沿いにあり、参道もこの川に沿って続いていて、桜は散り始めているのは少し残念だったが、春の季節を感じさせてくれる日差しの暖かさや、青々とした新緑の鮮やかさをこの河川沿いに感じることができ、気持ちよく参拝を行う事が出来た。
        
                  国納雷電神社正面
『日本歴史地名大系』「国納村」の解説
 南東は須賀村、東は古利根川を画して葛飾郡下高野村(現杉戸町)。もとは北隣の和戸村と一村であったが、正保期(一六四四―四八)以前に分村したという(風土記稿)。分村の際に三ヵ所に分割されて一村を形成したが、和戸村との境界を分明に弁別するのは不可能であった(同書・郡村誌)。地形は、古利根川沿いの自然堤防の微高地と後背湿地、さらには台地とが複雑に絡み合う。
        
 宮代町の北西部に位置する国納地域は、備前堀と前堀の間の低湿地帯にある農業地域で、かつては土を掘り下げて田んぼを作っていたため、その地内には池と水田が交互にある特徴的な景観が見られたという。当社の鎮座地付近の字を沼端といい、そこには「国納沼」という葭(よし)が生い茂る大きな沼があって、現在の宮代台団地はこの国納沼の跡地に造成されたものである
 国納地域は南・北・八河内の三地区が飛び地のように分かれている地域である。このうち八河内を除く国納の鎮守社が雷電神社で、祭日は125日と725日である。社の総代は、国納の南と北からそれぞれ一人ずつの合計二人が選出されている。以前はいわゆるダンナ方が再任されて長くやっていたが、近年は二年任期で交代するようになっている。このほか、神社で年四回行われる行事の当番として、御神酒当番がある。これは行事一回につき二人一組で、一回交代で家並順に回るものである。
 因みに国納の八河内では、稲荷神社を八河内の15軒程で管理し、鎮守としている。3月初午、1019日などが祭日になっている。
 
    参道左側に設置されている案内板     参道を更に進むと、右手に見える手水舎と力石
 雷電神社
 所在地  宮代町大字国納字沼端
 土地の人々に「板倉様」と称されている雷電神社は、かつて国納村の鎮守で、明治時代の『神社・寺院・堂庵明細帳』によれば別雷命を主神として、菅原道真公、猿田彦命が祀られている。 神社の裏手に東武伊勢崎線が通り、南には備前堀川が流れており、国納の東方に位置している。
 江戸時代後期に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、「雷電社、村の鎮守なり、華蔵院持、下三社も同じ。」とある。なお、下三社とは、稲荷社、天神社、道祖神社のことである。
 現在、一月二十五日、四月十七日、七月二十五日の年三回の祭礼が行われている。大正十四年四月には、大字国納字沼端の天神社、同道祖神社が合わせ祀られている。なお、現在の社殿は、大正十五年一月二十五日に建てられたものである。
 創立年月日等の由緒は不詳であるが、拝殿の正面に掲げられている額の裏に、「延享四年(一七四七)丁卯五月吉日和戸村吉岡平兵衛」とあり、江戸時代中期頃にはすでに祀られていたことが
明らかである。                               
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 国納村』
 古は隣村和戸村と一村なりしが、何の頃よりか分村せしと云、
 雷電社 村の鎭守なり、華藏院の持、下三社も皆同じ、〇稻荷社 〇天神社 ○道祖神社
 華藏院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺の末、蓮臺山安樂寺と號す、開山傳灯智正德三年十一月八日寂す、本尊正觀音行基の作にして、長一尺二寸許の坐像なり、〇庵二ヶ所 何れも地藏を安ず、一は惠心の作、長一尺六寸許の立像なり、共に華藏院の持、

 雷電神社  宮代町国納四三二—二(国納字沼端)
 別雷命を祭神とする当社は、国納の鎮守として祀られてきた社であり、『風土記稿』国納村の項には「雷電社 村の鎮守なり、華蔵院の持」と記されている。華蔵院は、当社の西約三〇〇メートルの所にある真言宗の寺院で、開山の伝灯智海は正徳三年(一七一三)の寂である。
 当社の創建の経緯は定かでないが、古老の中には群馬県板倉の雷電神社を勧請したものと伝える人もいる。この話には、裏付けとなる記録などが現存していないため確証こそ少ないが、五穀を実らせ、村を発展させるために、雷神を鎮守として祀ることによって風雨の順調なることを願った開発者の心情をうかがうことができる。また、当社の神体は像高二七センチメートルの雷神像であるが、上半身をむき出しにし、両手で連太鼓を打つ姿は、まさしく「雷様」そのものであり、当社の祭神に対する氏子の親しみが感じられるようである。
 神仏分離によって華蔵院の管理を離れた後は、明治六年に村社になり、明治三十二年の東武鉄道敷設に伴って境内の区域が変更された。大正十二年の関東大震災では本殿・拝殿が全壊したが、同十五年に復興が果たされ、その間の大正十四年には無格社の天神社と道祖神社の両社を字沼端から合祀している。昭和三十八年には備前堀の改修によって元の位置よりやや北側に社殿と鳥居を移動したが、参道が狭くなったため、境内に隣接する氏子所有の畑を買い取り、拡張を図った。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
             社殿の左側に祀られている石祠・境内社
     稲荷社・道祖神・三宝荒神等の石祠や境内社・天神社(写真一番右)が祀られている。
        
               社のすぐ南側を流れる備前堀川

 この社の祭礼、特に秋の祭礼は「初九日(はつくんち)「忍まち様」ともいい、忍城の殿様に感謝を捧げる祭りといわれ、元来は月遅れの9月9日であったが、新暦を採用してからは10月9日に行っている。
 一般的に祭りの日には幟を立てている社が多いが、この社では不思議なことに、昔から「幟立てをすると良くない」との理由から幟は建てていないという。
また、昭和三十年代までは、国納の祭礼には喧嘩が付きものといわれるほど喧嘩が多かった。というのも、年4回の祭礼の時しか酒が飲めなかったので、深酒をして暴れる者が多かったためであるというのだが、近年はその酒量もめっきり少なくなったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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