古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上真下金鑚神社

 九郷用水は、群馬・埼玉県境の神流(かんな)川から取水する用水。埼玉県北部を灌漑(かんがい)する。開削の時期は不明だが,古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがある。
 神川町新宿字寄島から分水した九郷用水は、神流川の河岸段丘縁辺を神川町小浜付近から等高線に沿って徐々に段丘上に導き、神川町中新里地域付近で東方向に向きを変えて、本庄台地面の植竹集落(南)、児玉町保木野(北)を流下し、児玉町上真下地域を通り、上真下金鑚神社から東方向350m先で、北東方向に流れる女堀川と合流する。
 江戸時代、上真下村は九郷用水の南北分流点の地に位置していることから、922ヵ村用水組合の割元村を蛭川村と共に務めていた。この流域での石高は7,817石で、全長は約8,640間とされていて、この膨大な石高を生産し、尚且つ用水の管理や維持するため、ほぼ一手に引き受けたのがこの用水でもあり、割元村である当村と蛭川村の苦労は計り知れない。
 現に嘉永6年(1853)に九郷用水組合内で大きな水争いが起きているなど、たびたび水争いが発生していたというのも想像に余りあることであろう。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町上真下186
             ・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             ・社 格 旧上真下村鎮守・旧村社 
             
・例祭等 祈年祭 414日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1214
                  大祓 1225
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2091225,139.1298314,17z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市児玉町上真下地域は、旧児玉町共和地区内にあり、北部は児玉工業団地があり、南部から東部にかけては条里水田地帯で、上真下地域の中央を女堀川が東西に流れ、地域一帯は低地帯となっている。また中央西寄りを南北に嘗て「本庄道」と呼ばれた埼玉県道131号児玉新町線が通っている。
 途中までの経路は保木野御霊稲荷神社を参照。この社から北東方向に2㎞程進行し、上記県道131号線に達した後、右折するとすぐ先に「上真下」交差点があり、交差点右側に上真下金鑚神社は鎮座している。
 残念ながら周辺には駐車スペースはなく、正面鳥居の近くに路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                               上真下金鑚神社正面
『日本歴史地名大系 』での「上真下村」の解説によれば、「吉田林(きたばやし)村・八幡山町の北に位置し、北は下真下村、西は賀美(かみ)郡八日市村(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、かつては当村および下真下村一帯は真下と称されていたとみられる。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。建久元年(一一九〇)一一月七日の源頼朝入洛の際に真下太郎、暦仁元年(一二三八)二月一七日の将軍藤原頼経入洛の際には真下右衛門三郎が供奉した(吾妻鏡)」との事だ。
 因みに「真下」と書いて「ましも」と読む。
        
                   境内の様子
 真下地域は武蔵七党児玉党に属していた真下氏の本貫地である。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。
『新編武蔵風土記稿 上真下村』では、真下氏に関して以下の記載がある。
 眞下は古く聞えし地名にして、當國七黨の枝流眞下二郎弘忠等の住せし地なり、【七黨系圖】に兒玉當の祖、遠峯有大夫弘行の三男、基行の子眞下二郎弘忠とみえたり是當郡に住せし兒玉氏の屬なれば、此地を領して在名を名乗しこと知らる、又【東鑑】に眞下右衛門三郎・同太郎等あり、且前村舊家忠右衛門所藏天正十八年の文書にも眞下左京亮・眞下新六郎など見ゆ、これによれば上下に分れし年代も大抵推て知べし、
『風土記稿』に記載にある「天正18年の文書」の他に、本庄市今井の「鈴木家文書」には、「眞下左京亮・下眞下新六郎」という名が見え、どちらにしても、児玉党真下氏の系譜を引く武士がこの地にいたことは確かである。上真下には古代末期から既に児玉党・真下氏が存在し、治承4年(1180)源頼朝が石橋山合戦で敗れたとき、平家方に「真下四郎重直」という武士がいたことが『平家物語』に見える。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿』以外での真下氏の記述は以下の通り。(*埼玉苗字辞典参照)
『武蔵七党系図』
「有大夫別当弘行―真下五郎大夫基行―三郎有弘(兄太郎弘忠、弟四郎弘親・其子中務丞弘常・其子小太夫)―弘長―兵右衛門尉重盛―太郎成胤―弥太郎成氏(弟胤氏)―又太郎成実。成胤の弟三郎某―重親―孫太郎重延(直延トモ)」
『平家物語』
「篠原合戦。平家方に長井斎藤別当実盛・浮巣三郎重親・真下四郎重直、我等は東国では皆人に知られて名ある者でこそあれ」
『吾妻鑑巻十』「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に真下太郎」
『同巻三十二』「嘉禎四年二月十七日、真下右衛門三郎」
『典籍古文書』
「建治元年五月、武蔵国・真下右衛門尉跡四貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷』
「滝上十郎道信(正応年中の人)は、児玉党に真下の五郎太郎と闘論す」
        
               境内に設置されている案内板
 金鑽神社 御由結  本庄市児玉町上真下一八六
 □御縁起(歴史)
 真下は武蔵七党児玉党に属した真下氏の本貫地で、天正のころ(一五七三~九二)に上下に分かれたものと推測されている。真下氏の館跡は下真下の字石橋にあり、下真下の鎮守である金佐奈神社は真下太郎基行が元暦元年(一一八四)に勧請したものと伝えている。したがって、下真下と元は一村であった上真下の当社は、その時期は明らかでないが、この金佐奈神社から分 かれた社であると考えられる。
 当社の境内は上真下の集落の中心地にあるが、元来は村の北端の丘の中腹(字金鑽西)にあった。この丘は、神川町に鎮座する武蔵二宮の金鑚神社が遥拝できる所である。『児玉郡誌』によれば、宝永年間(一七〇四~一一)に社殿が炎上したため、字神西の日枝神社に一旦合祀され、宝暦年間(一七五一~六四)に至って、社殿を再興し、旧社地に戻ったという。この日枝神社が、現在の社地に元からあった神社で、無格社であった。ところが、一村一社を目指して行われた政府の合祀政策に基づき、この日枝神社に明治四十一年をもって村社であった当社が合祀され、その結果、日枝神社は社号を金鑚神社と改め、村社となった。このような経緯をたどって、当社は現在のような形になったのである。
 本殿は、日枝神社が春日造りで明和四年(一七六七)
の造営、金鑚神社が流造りで宝暦年間の造営である。(以下略)
                                      案内板より引用
 
   社殿左側に祀られている石祠三基           社殿右側にも境内社。

         詳細不明              
内部に石祠二基と三体の御幣あり。
 社殿右側に鎮座する境内社の中に二基の石祠があるが、向かって右側の石祠の屋根正面部に「八坂・大〇」と刻印されているようにも見える。
       
              境内に屹立するご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
             

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