田島長良神社
「明和村の民俗」によると、田島地域の梨つくりは明治6年頃から明和村へ入ったといわれているが、そのころはそれほど盛んではなく、大正7・8年ころ陸稲つくりがひろがり、旱魃にあいやすいので、桐の木を畑に植える人が出たりしたが、その後、梨つくりが流行した。羽田(場所は不明)が先進地で、そこから大きい木を買い、植えて拡張したもので。それから苗木から仕立てるようになった。梨は旱魃の影響がほとんどなく、田島の梨は裁培を始めてから四代目となり、すっかり地域の特産になっている。
因みにこの地域での梨の肥料には有機質を使用していたという。大豆粕・油のしめ粕・堆肥等で、堆肥は麦のから(麦わら)を積んで、利根川の草を刈り、人糞尿をかけて何回も積みかえをしてつくる。稲藁は梨畑の地面に敷く。そら豆をつくって緑肥としてふみこんだのは大正初年頃のことであるという。
・所在地 群馬県邑楽郡明和町田島165
・ご祭神 藤原長良公(推定)
・社 格 不明
・例祭等 不明
田島は、群馬県邑楽郡明和町を構成する地域の一つである。大部分が田畑となっているが、県道沿いには住宅などが集中する区域も見られる。また、邑楽郡明和町内の中央部に位置しているこの地域は、西側には新里、南は江口、北には南大島等の地域と隣接している。
新里菅原神社から埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中進行方向左側に明和町立名和中学校が見え、そこから更に800m程進むと、県道沿い左手に田島長良神社が見えてくる。
県道沿いに鎮座する田島長良神社
『日本歴史地名大系』 「田島村」の解説
南大島村の南に位置する。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、大荒木郡佐貫庄田島之郷検地帳(奈良文書)が残る。末尾が欠落しているため全容はわからないが、下田二一筆・上畠二七筆・中畠二四筆・下畠七四筆・屋敷五筆が数えられ、名請人のほかに分付百姓の記載がある。大荒木郡は邑楽郡の古訓表記である。慶安四年(一六五一)の検地帳写(同文書)によると、上田五町一反余・中田三町四反余・下田一五町五反余、上畑九町二反余・中畑八町五反余・下畑一六町三反余、屋敷一町六反余。名義人計六五、うち村内四五・村外二〇(江口村一七・新里村三)、屋敷三〇筆。寛文郷帳によると田方二三〇石余・畑方二四六石余、館林藩領。
拝 殿
この社も創立年代・由緒・社格・例祭等不明
拝殿の左側に祀られている境内社・八幡社 社殿奥に祀られている石祠二基
詳細不明
田島長良神社の詳細は不明であるが、「明和町HP 明和町の文化財と歴史」によると、この地域には「正和の板碑」と称する鎌倉時代後期に造られた板碑が田島地域の青木氏屋敷内で出土している。
この板碑は井戸掘りをしている途中出土したものといわれ、高さ89㎝、幅29㎝、鎌倉時代後期の正和4年(1315)3月6日に造立したものである。板碑は鎌倉時代中期から造立された塔婆形式の一つで、関東地方では埼玉県秩父郡長瀞町付近から産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)が主として用いられている。その始まりについては五輪塔の地輪を長くした板塔婆、あるいは長足塔婆の形状を木製から石材にしたものと推察できる。この造立の目的は、亡者の追善供養に建てたものは墓地に、生前に後生を願うために建てたものは路傍などが多いようである。この板碑の梵字は阿弥陀仏を表している。阿弥陀仏は平安時代末期、法然上人によって立教開宗(りっきょうかいしゅう)された浄土宗によって広められたものであるが、身分の高下、職業の貴賤を問わず、またどのような罪深い人でも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は阿弥陀仏の救いにあずかり、必ず極楽往生できるという平易な教えであったため、庶民の間に急速に浸透していき法然死後も浄土真宗を開いた親鸞上人等によって後生次第に発展していったようである。
正和の板碑は、明和町の文化財に指定されている。
境内に祀られている富士塚
塚上に石祠が一基、塚の左右に「烏帽子磐」と「小御岳」の石碑がある。
参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等