古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

外記新田鷲神社及び旗井八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市外記新田14
             
・ご祭神 天日鷲命
             
・社 格 旧外記新田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春大祭 41日 秋大祭 1015
「道の駅 童謡のふる里おおとね」から一旦南下し、「砂原」交差点を左折する。埼玉県道60号羽生外野栗橋線合流後、3.6㎞程南東方向に進むと、道路沿い脇で、「外記新田集会所」の南側隣に外記新田鷲神社は鎮座している。
        
                 外記新田鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「外記新田」の解説
 中渡村の南西に位置する。江戸初期に飯積村(現北川辺町)の平井外記が開墾した地を子の弥兵衛に譲った後(弥兵衛村)、当村を開墾したため外記新田と称したという(風土記稿)。東の渡沼村との間に長沼がある。現新川通の法輪寺前にある地蔵尊の元禄三年(一六九〇)銘に外記村、元禄郷帳に外記新田村とあるが、「風土記稿」・天保郷帳で「外記新田」に復している。田園簿によれば田高五石余・畑高一三三石余で、幕府領。
 元禄郷帳では五六石余に石高が激減、幕末まで変わらず。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、のち上総久留里藩領となり、延享三年(一七四六)の久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、同藩領で幕末に至る(改革組合取調書など)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 外記新田村』
 平井外記前村開墾の後、其子彌兵衛に譲り、又當村を開きしをもて村名もかく唱へりと云、(中略)享保十七年黒田豊前守に賜はり今も然り、
 沼 長沼と云、東の方渡沼村の境にありて、則兩村入會の持なり、古は大なる沼なりし由、今は 幅二間、長四百間に餘れり、
 神明社 〇鷲宮 村の鎭守なり、二社共に寶藏寺持、
 寶藏寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、日輪山寶光院と號す、本尊不動、


 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町外記新田一四(外記新田字横川)
 利根川中流域南岸の沖積平野部に展開するこの地は、古来、洪水に悩まされる低湿地であった。
 社記に「当所は葦の生い繁る低湿の地なりしが、天正年中飯積村(現北川辺町飯積)より、平井外記なる者八十余名を引き連れて入植し開発する所なり、よって地名を外記新田と名付く。其後江戸の繁栄につれて利根水運盛んとなり当所もまた栄えたり。古く当地方は鷲宮領に属す。これを以って寛永八年前耕地に鷲明神を勧請す、以後当村の開発進みて前耕地より離れて現在地に移住する者多く安永年中右鷲明神を分祀せり、これ当社の創(はじめ)なり」とある。
『風土記稿』に「鷲宮 村の鎮守なり、宝蔵寺持」とあり、別当が真言宗宝蔵寺であることが知られる。
 明治五年に村社となる。大正三年には同字の皇太神宮を合祀する。
 この皇太神宮を氏子は北晨様と呼ぶが、口碑によると北晨様は本殿への合祀を嫌だといって氏子内に病気をはやらせたので、本殿の右側に神社を造って祀った。しかしまだ病が続くので行者に観てもらった所、居候は嫌だと怒られたので、早速旧地に社を造って移したという。
 覆屋内に嘉永六丑年四月始五日銘の棟札を有する一間社流造りの本殿があり、向かって左に稲荷社、右に天明の飢饉のお祓い米を放出した黒田氏を祀る生祀黒田社(石祠)がある。
                                  「埼玉の神社」より引用


 外記新田鷲神社の本殿内には「生祀黒田社」の石祠が祀られているという。
『新編武蔵風土記稿 中渡村』には「享保十七年黒田豊前守に賜はり今も然り、(中略)黒田権現社 寛政年中領主黒田大和守、村民を殊に撫育せしかば、報恩の為め崇め祀れりと云ふ」と載せている。大名と名主の身分上の違いはあれど、平井外記は多くの餓死者を出した正保(1644年~1647年)の飢饉のとき、救済の策尽きた外記は敢えて領主の法度にそむいて筏場の米倉をひらき、飢えた農民を救ったが故に家は取潰しとなり、外記自身も責を負って自刃した、いわば「義人」である。
『風土記稿』に載る「黒田豊前守」と「黒田大和守」は、それぞれ享保17年(1732年)、寛政年間(1789年〜1801年)時点での人物で、年代的には同一人物ではなさそうだが、親子の関係であったかもしれない。どちらにしても、徳川幕府の直轄地である「御料所」において、幕府より派遣された家臣・もしくは代官である黒田大和守は、中渡村で「生祀」として崇め祀られた。それに対して、平井外記は帰農して名主となっているとはいえ、北川辺領開発に貢献した人であり、常に農民の側にあって権力に屈せず、農民存亡にあたってはその盾となった人で、この功績は決して黒田大和守にも劣っていなかったはずであり、事実加須市飯積遍照寺にある「平井外記」の墓は加須市の市指定史跡となっている。
 
        
境内に祀られる石碑群  左から庚申塔(二基)   社殿右側に祀られている境内社
   六十六部供養塔・十九夜塔・地蔵尊           詳細は不明

 当所には425日にお囃子回りと呼ばれる行事があり、騎西の玉敷神社から獅子を借りて来て各戸を祓う。昔は若衆組が前日の午後3時ごろ当地を出発し、玉敷神社前の湯屋で湯に入り一杯やった。午前零時を過ぎると獅子を出してくれるので、これを借る。午前3時頃に当社に着き、太鼓を打って獅子の到着を報じる。夜明けに獅子回しの者3名が祓い・箱・刀の順番で家を祓って回る。その際には、土足で縁側から上がり座敷を通って玄関に出る順路があったらしい。



旗井八幡神社】
        
             ・所在地 埼玉県加須市旗井922付近
             ・ご祭神 誉田別命(応神天皇)(推定)
             ・社 格 旧渡沼村鎮守
             ・例祭等 不明
 外記新田鷲神社から埼玉県道60号羽生外野栗橋線を450m程東行し、「東川用水路」手前にある路地を左折し暫く進むと、左手に旗井八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                  旗井八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「渡沼村」の解説
 中新井村の西に位置し、北を利根川が流れる。西の外記新田との境に長沼がある。地名は、沼が多く隣家へ行くにも沼を渡るような地であったことによるという(大利根町地名考)。田園簿では渡沼新田と記され、高一三九石余で皆畑、幕府領。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。八〇石余のまま幕末に至る(天保郷帳・旧高旧領取調帳など)。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)には幕府領(「向川辺領村々高書上帳」同文書)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
       「埼玉の神社」にもこの社に関する項はないため創立年代や由緒等の詳細は不明。

 現在では大字旗井に属している当地だが、『新編武蔵風土記稿』によると、嘗ては「渡沼村」という村として存在していた。

『新編武蔵風土記稿 渡沼村』
 渡沼村は江戸の行程、庄名檢地等前村に同じ、東は中新井村、南は琴寄村、西は外記新田、西北は中渡村なり、東西十一町餘、南北二町許、古は民戸も四十餘ありしが、天明六年洪水の時流失して、夫より田地も悉荒廢の地となり、今は僅に八軒なり、當村も古御料にて、今は一橋殿の領知なり、
 小名 前 裏
 沼 長沼と云、外記新田との境にあり、
 八幡社 村の鎭守なり、福壽院持、
 福壽院 新義眞言宗、琴寄村善定寺末、鳩峯山と號す、開山頼蹟寂年を傳へず、本尊彌陀を安ず、
   
 当地は、天明6年利根川水系で発生した大水害により、それまで40戸余りの民家もほとんど流失し、一帯は荒廃し、その後、『風土記稿』編集時の文化・文政年間(1810年〜1830年)時においても8軒ほどしか復興していない状況であったという。
 
 「渡沼集会所」の奥に集団で祀られている      子大権現と二十三夜塔の石碑
       庚申塔や地蔵尊等

 天明の洪水(てんめいのこうずい)とは、1786年(天明6年)に利根川水系で発生した大水害のことで、『徳川実紀』の中で、「これまでは寛保二年をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍」と言及する規模となった。
 利根川水系では、1783年に浅間山が大噴火を起こし、吾妻川を火砕流が流下した。大量の土砂がさらに下流の利根川本川に流れ出し、河床の上昇を招いた。これが3年後の水害の遠因となった。
17867月、関東地方は集中豪雨に見舞われた。利根川は羽根野(現茨城県利根町)地先で氾濫を起こし、江戸市中へ大量の濁流が流下した。「栗橋より南方海の如し」と伝えられるほどの惨状となった。本所周辺では最大で4.5m程度の水深となり、初日だけでも3641人が船などで救出されたという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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