古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

奥宮東本庄稲荷神社 

 かつて盛んであった養蚕との関わりが深く、例祭と八十八夜祭で植木を売る露店がでるのは桑苗の市が立っていたころの名残である(平成二十年頃植木屋の廃業で途絶)。また、八十八夜では氏子が銘々に米の粉でこしらえた繭玉を重箱に入れて神前に供える習わしがあった。この繭玉1粒は繭10貫を意味しており、養蚕をしている家では祭典後にこれを借りて帰り、養蚕の神札と共に神棚に上げ、その後下げて火であぶって食べた。借りた繭形は翌年に倍にして返すのが例で、通常は10粒(100貫)を借りたものであったが、養蚕の衰退にしたがい平成元年ごろには行われなくなった。しかし、東本庄稲荷神社に隣接する総合体育館の名称がシルクドームであることからも、この地域と養蚕の深い関わりが今も伺われる。繭玉作成は平成24年に先代の宮司の意志を現宮司から聞いた総代長萩原満氏により再興された。例祭の神楽は金鐕神楽筆頭の忍保組であったが、途絶により一時カラオケなどに代わっていたが現在は祭祀舞の豊栄舞(巫女舞)が行われている。
 出典「埼玉の神社」埼玉県神社庁、宮司より聞きとり          参考資料 Wikipedi
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             ・所在地 埼玉県本庄市北堀41
             ・ご祭神 宇迦御魂命
             ・社 格 不明
             ・例 祭 祈年祭 220日 八十八夜祭 52日 新嘗祭 1115                   
 東本庄稲荷神社は、若泉稲荷神社の奥宮で、若泉稲荷神社から東南へ少し行った所で、本庄総合公園のシルクドームの道を隔てた西側に鎮座している。シルクドームの正式名は本庄総合公園体育館だが、嘗て絹産業で栄えた本庄市の歴史にちなんだ愛称であるという。
 社周辺には駐車スペースが十分に確保されていて、今回は神社前にあるシルクドームの駐車場に停めてから、参拝を開始した。
      
     「奥宮 東本庄稲荷神社」社号標柱    社号標柱の近くにある
                       東本庄稲荷神社御社殿御造替記念碑
 東本庄稲荷神社御社殿御造替記念碑
 東本庄稲荷神社は、今より八百二十年前、安徳天皇御宇治承四年荘太郎藤原家長が勧請したのを縁起とします。
 御祭神は 倉稻魂命。相殿神として 天照大神ともう一柱の神を奉斎しています。 倉稻魂命は、食物の神格としてものを生り成す御神徳をお備えになられ、それ故に産業一般の広い御威徳の輝く神におわします。殊に農業はその大稜威の根本、商業はその御恩頼の精華であり、その分野に多くの尊崇を集めておいでなのは自然といえましょう。また、御眷族たる白狐は崇敬の家に一体宛派遣され、その力を尽くして守護にあたるため、同じく御眷族の多くおわす 大山祇神に相並び立つ篤い信仰が寄せられるもととなっております。
 今次本庄総合運動公園整備にあたり、神社境内地も整地し直すこととなり、御社殿の老朽も併せ鑑み、御造替をなすことと決しました。篤信の崇敬者、若泉稲荷神社の氏子一同の神忠を得て新社殿落成し、ここにその志を記念して碑とします。
 平成十一己卯年十二丙子月十八甲辰日(以下略)
        
        稲荷神社だけあって、稲荷系列独特な朱色の鳥居が奉納されている。
        
                 鳥居に掲げてある社号額。
 案内板(縁起等の記載がない)では、「正面からの撮影を禁ず」と書かれており、斜めから撮影を行う。本庄市内で、最近建てられた案内板には、多く表記されている。神様に対しての最低限のモラルとも感じ、案内板を作成した側の思いを深く受け止めた次第だ。
        
                            旧来の案内板は社殿左側手前にある。
 東本庄稲荷神社  所在地 本庄市北堀四一
 男堀川と小山川にはさまれた徴高地上に所在する。東本庄稲荷神社の祭神は宇迦御魂命であり、武蔵七党の一党で児玉党の一族である本庄氏の氏神であった。
 当地周辺は東本庄館跡と推定され、埋蔵文化財も多く残されており、本庄城の前身であると伝えられているが、詳しい資料もなく不明な点が多い。
 なお、栗崎集落内には栗崎館跡、西北方の本田には北堀本田館跡があり、現在も所々で堀跡を見ることができる。
                                      案内板より引用
        
                                        拝 殿
 
          社殿の左側に並んで鎮座する末社群。詳細は分からず。
 東本庄稲荷神社が鎮座する北堀地区字「東本庄」の地名由来として、この地が「本庄」という地名が起こった土地である事を意味しているという。
・安保文章
「応永二十五年、本庄左衛門入道・号西」。「永享十二年十二月一日、安保信乃入道の信州勢退治出陣の時、西本庄左衛門尉は金田(現厚木市)より帰宅の由承候、驚入候」
・日光輪王寺
「応永三年代般若経奥書」に「西本庄栗崎宥勝寺」と記載。
・小茂田村勝輪寺文章
「児玉郡栗崎村無量寿院宥勝寺は建仁二年有道宿祢五世孫庄太郎家長嫡男小太郎頼家元暦元年一ノ谷戦に戦死す為に創立す。西本庄三郎朝次の子薦田次郎時次・勝輪寺創立す」
 
    社殿の奥にも境内社あり。稲荷社か。       社殿から鳥居方向を撮影。

 上記文章等の記載から、西本庄の位置が栗崎付近である事が分かる。また栗崎地区字「宅地村」という場所は、集落があることを示す地名で、地名だけからは一見新しく感じられるが、この地域内には嘗て「堀の内」という場所があり、嘗て児玉党庄氏の館跡ではないかと推測されている。
 このように北堀地区から栗崎地区にかけての周辺地域が、中世前期までは本来の「本庄」であったと考えられる。
        
                                  社を遠くから撮影
        
    社の周辺は本庄総合公園及び体育館(シルクドーム)もあり、整備も行き届いている。 
         ウォーキング活動しながらの神社散策もまた良いものだ。
 
                小山川、旧名称の身馴川(みなれがわ)の支流男堀川の流れ。       

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