北堀若泉稲荷神社
どちらにしてもこの地区の北端部には九郷用水の用排水路である女堀川が流れており、九郷用水に関連した地名と考えた方が妥当だろう。この「北堀」の地名は中世の資料には出ていない。若泉稲荷神社の南東約750mに鎮座する東本庄稲荷神社周辺は、現在字「東本庄」という小さな地域となっているが、嘗ては武蔵七党の一党で児玉党の一族である本庄氏の氏神であり、周辺は東本庄館跡と推定され、埋蔵文化財も多く残されており、本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺にあった本庄城の前身であると伝えられている。
北堀地区と栗崎地区周辺が中世前期頃までは本来の「本庄」であった事を物語っている。
・所在地 埼玉県本庄市北堀209
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧指定村社
・例 祭 春季大祭 4月4日 大祓 旧暦六月晦
新嘗祭 12月15日
北堀若泉稲荷神社は本庄総合公園の西側約900m程、南北に走る埼玉県道31号本庄寄居線沿線上に鎮座している。「JA埼玉ひびきの」のすぐ南側に社の社叢が見えるので、分かりやすい位置にある。
地形を確認すると南側には男堀川も含む小山川、北側には女堀川に挟まれた社の周辺標高57m~58mに比べて60mと若干の高台に位置している。高台と記載したが実は古墳で、調べてみると、若泉稲荷神社古墳と呼ばれる径38×21m、高さ2.5m程の古墳墳頂に鎮座していて、円墳の形状のようなのだが,かつては前方後円墳とする見解もあったようだ。西五十子古墳群に属する古墳。
因みに「小山川」は地元では、旧名称の身馴川(みなれがわ)で呼ばれることもある。
県道沿いに南北に位置する社
参道正面 鮮やかな朱が基調の両部鳥居
若泉稲荷神社の歴史は治承4年、武蔵守継行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際、鎮守として勧請したことに始まる。天正18年に本庄氏に代わって小笠原掃部太夫信嶺が本庄城主になった時に、旧領主が勧請した社であるとの理由からこの神社を最も崇敬し、現在の社地に社殿を建立して奉遷した。明治にいたり、村社としてその庄名を冠して当時の埼玉県令千家尊福卿より若泉稲荷神社と名付けられた。
Wikipediaより引用
参道左側には境内合祀社 境内合祀社の先には御嶽社あり
左から秋葉社・手長社・琴平社 御嶽社の手前右側には護国社が鎮座
参道途中にある案内板
若泉稲荷神社 所在地 本庄市北堀二〇九
若泉稲荷神社の祭神は、倉稲魂命である。
伝来の口碑によれば、一ノ谷の合戦(一一八四)で、源氏に従い平重衡(たいらのしげひら)を生捕った庄太郎家長は、その館を現在の小字東本庄に構えたが、治承四年(1一一八〇)当社を勧請建立し、この地の鎮守としたと言われている。
その後、天正十八年(一五九〇)小笠原掃部太夫信嶺が本庄氏に代わって領主となったとき、旧領主勧請の古社であるので、最も崇敬を加え、あらたに社殿をこの地に建立奉遷したと伝えられている。
昭和六十一年三月 埼玉県 本庄市
案内板より引用
拝 殿
拝殿に掲げてある扁額 社殿左側には旧東本庄社が鎮座
拝殿は素朴な雰囲気が漂うが、奥の本殿は絢爛豪華な彫刻が施されている。
参拝日は冬時期であったため、枯れていた状態 神池の手前に天神社が鎮座
の神池
北堀若泉稲荷神社の社殿部は,若泉稲荷神社古墳と呼ばれる古墳の墳頂部と言われ、西五十子古墳群に属する古墳。直径南北38m×東西約21m・高さ2.5mの円墳とのことなのだが,かつては前方後円墳、もしくは帆立貝式古墳とする見解もあったようだ。
旧児玉町を含む現在の本庄市は、利根川南側に位置し、北側には古墳時代、東国の雄である毛野国に接する区域でもあり、舟を利用した経済の流通も活発に行っていたであろう。
北堀若泉稲荷神社 静かな境内
本庄最古の遺物は、小島石神境遺跡と西五十子田端屋敷遺跡で発見された、今から約15000年前の旧石器。本庄に最初にきた人々は、信州の和田峠付近で産出する、黒曜石製のナイフ形石器を、その証として残していった。
また本庄市内には、かつて200基近くの古墳があった。小島三杢山古墳は、全国第20位(約20万基中)の超大型円墳だった。また、北堀の公卿塚古墳からは、全国で5ヵ所しか出土していない、珍しい技法の埴輪が発見されている。小島御手長山古墳から出土した坊主頭の人物埴輪は、市指定文化財。そして、近くの前の山古墳からは、全国唯一の大耳でしゃくれあご、歯を表現した盾持人物埴輪が発見されている。
参考資料 本庄市 ホームページ