阿夫利天神社
社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされ、天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。
この社は別名「雨降山〈あふりやま〉」という。大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり(あふり)山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。大山阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきた。
その後、江戸期以前の神仏習合時代には、石尊大権現が祀られていた。この石尊大権現は、大山の山岳信仰と修験道的な信仰が融合した神仏習合の神で、十一面観音を本地仏としている。
本庄市中央地域に鎮座する当社は、寿永年間(1182~1185)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた「石尊大権現」をこの地に勧請し、明治初年まで安養院が別当であった。その後、大正2年に天神社等を合祀し、社号を阿夫利天神社と改称したという。
・所在地 埼玉県本庄市中央3-4—38
・ご祭神 大山祇大神 天満天神(菅原道真公) 大雷大神 高靇大神
・社 格 旧無格社
・例祭等 祈年祭 2月25日 春祭(勧学祭) 4月25日
例祭(お神酒上げ神事) 9月3日 新嘗祭 11月25日
仲町愛宕神社の参拝前、社の北側にあるショッピングモールの駐車場に車を停めてから参拝したのだが、その駐車場所から目を西側に転じると、遠目からも分かるこんもりとした森が見え、徒歩にて数分歩くと、阿夫利天神社に到着することができる。
阿夫利天神社正面
本庄市中央地域は、本庄市役所や本庄城跡から「駅前通り」を隔ててすぐ西側に隣接する、現在の行政区域で南北約500m・東西650m程の横に長い四角形の地域であり、この地域の北側境には古小山川が流れる。水源は元来湧水であったが、残念ながら現在は枯渇していて、現在の河川水量は少なく、現在の主な水源は生活排水と御陣場川からの導水である。その河川周辺の標高が約47mに対して、南側境である中山道は57m程で、台地面と低地面との断崖によって形成される。地域の北西域にある阿夫利天神社もその社の北側にある若泉公園とは標高差5〜6m程で、台地面との境となっていて崖下に公園が東西に広がる。
石段の左側に並ぶ庚申塔三基と石祠一基 石段右側に建つ社号標柱
阿夫利天神社は「石尊様の山」と呼ばれる高台の北端部に鎮座している。その高台の北側の付け根に湧水池があり、嘗ては常時、水が湧きだしていたという。
社伝によれば、この湧水は、天明七年(一七八七)に旱魃となった折、阿夫利神社の御神体を社殿北側にある池の中洲に移して雨乞いをしたところ、霊験を得て雨が降り、同時に湧水を得たのが始まりであるという。この霊験譚は、村内ばかりでなく周辺の村々まで知れ渡り、当社は「水の神様」として厚く信仰され、現在の寄居町や群馬県高崎市辺りからも、石尊講と称して多くの人々が多数参拝したとのことだ。
石段を登り終えるとさっぱりとした参道が続く。 参道途中右手に案内板が設置されている。
阿夫利天神社 所在地 本庄市中央3-4
阿夫利天神社の祭神は大山祇命、大雷命、高靇神、菅原道真、天手長男命の五神である。
社伝によると、寿永年間(一一八二~八五)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢崎市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。
その後、天明三年(一七八三)七月の大かんばつの時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。
寛政三年(一七九一)に社殿を再建、大正二年に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。
案内板より引用
参道を進むと、正面に社殿、右側には神楽殿、左側には社務所が見える。
石段上に鎮座する社殿 石段下で、右側に設置されている案内板
拝 殿
阿夫利天神社御由緒 本庄市中央三-四—三八
▢御縁起(歴史)
当社は、大正二年、阿夫利神社に天神社が合祀され、社名を阿夫利天神社と変更したものである。
阿夫利神社は、社伝によると、寿永年間(一一八二~八四)源頼朝によって領地を受けた児玉党の本庄庄太郎家長が、かねてより信仰していた相州大山石尊大権現を、領地内の当所に勧請したのが始まりである。文明十三年(一四八一)その隣接地に、本庄藤太郎雪茂 (僧号伊安))が若泉山安養院無量寺を開基し、以後、明治初年の神仏分離まで、同寺が別当職を務めた。
一方、天神社は、「阿夫利天神社由緒書」(埼玉叢書第三巻所収)によれば、天正二年(一五七四)に本庄城主本庄宮内少輔実忠の命により城の鎮守として奉斎されたことに始まる。本庄氏退去の後、城主となった小笠原掃部太夫も、鎮座地のほかに五反余の土地を寄進し「天神林」と名付けた。慶長十七年(一六一二)小笠原氏国替に伴い本庄城が廃城になると、天神社は村人の手によって守られ、名主七左衛門・問屋伊左衛門らが中心となって寛永六年(一六二九)に御霊を天神林に再建した祠へ移した。寛文七年(一六六七)に同社は、別当寺管霊山自在院慈恩寺境内(現在の照若町)に移された。その後、大正二年に町役場建設用地として天神社鎮座地が指定されたことにより、阿夫利神社に合祀となった。
平成十二年一月、放火により社殿が焼失したが、御神体が残り、平成十四年九月に再建され、現在に至っている。(以下略)
案内板より引用
本殿から社殿全体を撮影
阿夫利天神社の例祭は、毎年9月3日に行われる盛大な祭りである。嘗ては、9月2・3日の2日間行われ、古くから香具師(やし)の間で「三大高待」と呼ばれ、大宮氷川神社の十日待、秩父神社の妙見待と並び称される程の賑わいであった。
この例祭では、神楽の奉納や、水を恵む神様に御神酒を奉納する「御神酒上げ神事」が行われる。この「御神酒上げ神事」は、参加している旧本庄宿の12ヵ町の各町内の旦那衆が、お神酒樽を首に掛けた町内頭と呼ばれる鳶職の親方を先頭にして、四斗樽の御神酒を荷車に載せ、木遣りと共に引いて神社に奉納する勇壮な神事である。この神事は、午後6時頃出発し、各町は、町名の入った提灯を下げ、町内ごとに昇殿すると持参した「お神酒樽」を神前に供え、町内の安全を祈念する。その後、各町内に戻り、自治会館や料理屋でお神酒を頂き直会をする。
本殿の西側にひっそりと祀られている 本殿奥で、森に覆われている一角に鎮座する
境内社・出世稲荷社 境内社・宝登山神社(一番右)と多数の石祠
阿夫利天神社の氏子区域は江戸時代初期より中山道で栄えた旧本庄宿の12ヵ町で、宮本町・泉町・上町・照若町・七軒町・仲町・本町・南本町・台町・末広町・朝日町・諏訪町であり、この宝登山神社の台座に刻印されている「照若講」とは、この12ヵ町のひとつである照若町の講者からの奉納であろう。
阿夫利天神社・本殿奥に脇道があり、下り斜面を降りると、
崖下の空間を利用して「若泉公園」が東西に広がっている。(写真左・右)
公園南側の崖面下には嘗ての湧水跡と 崖面西側には、画像が小さくて見ずらいが
思われる痕跡がみえる。 不動明王と二童子が祀られている。
社の南側に隣接してある普寛霊場(写真左・右)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市 観光協会HP」「Wikipedia」「境内案内板」等