古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栗崎金鑽神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市栗崎152
             
・ご祭神 天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊
             
・社 格 旧栗崎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 225  例祭 1019  新嘗祭 1215日 他
 本庄早稲田駅北口から北陸新幹線沿いに走る埼玉県道86号花園本庄線を東行し、550m程進んだ信号のある交差点を右折、「マリーゴールドの丘公園」のある緩やかな高台を過ぎたすぐ右手に栗崎金鑽神社の木製の鳥居が見えてくる。地図を確認すると、本庄早稲田駅から東側の浅見山丘陵の東端に位置している
 鳥居のすぐ右手に数台分駐車可能な専用駐車場が完備されていて大変ありがたい。
        
                  栗崎金鑽神社正面
『日本歴史地名大系』 「栗崎村」の解説
 浅見山(あざみやま・大久保山)丘陵と台地を開析する沖積低地および集落が立地する微高地にまたがる村。北東流する小山川の南岸は水田地帯、西部は丘陵となる。東は榛沢郡榛沢村(現岡部町)、南は小茂田村(現美里町)、西は下浅見村(現児玉町)、北は東から北堀村・東富田村・四方田(しほうでん)村に接し、小茂田村との境界は古代の条里線上にあたる。栃木県日光市輪王寺が所蔵する応永三年(一三九六)一〇月一八日の大般若経巻四四七奥書に、「於西本庄栗崎有勝寺書写了」とある。天正八年(一五八〇)一二月一日、鉢形はちがた城(現寄居町)城主北条氏邦は長谷部備前守に上野の武田方への塩荷を押えることを命じているが、その範囲のなかに栗崎が含まれている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)。
 
          鳥居の左右に設置されている社の案内板 (写真左・右)
        
  浅見山丘陵地端部に位置している為、緩やかな上り斜面となり、社殿へと続いている。
「本庄の地名(本庄地域編)HP」によると、社が鎮座している「字」は「東谷」といい、大久保山(浅見山丘陵)沿いにある地名であるが、この周辺にはそのほかに「谷(やつ)」「西谷(にしやつ)」もあり、この丘陵地にある幾筋の谷が由来となっている。そして、西よりの谷を西谷、東側の谷を東谷と呼んでいるという。この中には栗崎から下浅見に通じる古い道路があり、中世においては児玉党の庄氏一族である庄氏・本庄氏・四方田氏・阿佐美氏等が行き来をしたのであろうと推測される。
        
                    拝 殿
 金鑽神社  本庄市栗崎一五二(栗崎字東谷)
 当地は浅見山丘陵の東端に位置し、地内を小山川(身馴川)が貫流している。
『風土記稿』によると、当社は真言宗宥勝寺の項に記載され、「金鑽明神社 是を村内の鎮守とす(以下略)」とあり、同寺の東北約二〇〇メートルに鎮座することから、寺の鬼門除けに二宮金鑚神社を勧請したとも想定される。同寺の開山法印良運は建仁二年(一二〇二)示寂と伝えることから、寺の創建は鎌倉初期と思われる。また、同寺は慶長元年(一六四八)に徳川家光より朱印十石を与えられている。
 金鑚神社は九郷用水沿いの村々に分布し、農耕・利水の神として祀られ、児玉党とのかかわりが深い。ちなみに、当地は児玉党庄氏の本貫地で、宥勝寺には一ノ谷合戦で戦死した庄小太郎頼家の墓 (県指定旧跡))がある。また館と思われる遺跡が当社の東約五〇〇メートルに在る。
 社伝によると、明和七年(一七七〇)に地内の御料分が川越城主松平大和守の所領となってより、特に崇敬が厚く社殿改修の折に金品の奉納があったという。また、古くから雨乞いが行われ、干ばつ時には代官を派遣して祈雨祭を実施したとされる。
 祭神は天照大御神・素盞鳴尊・日本武尊の三柱である。境内社は、天神社・琴平社・八坂社・蚕影社などである。天神社と琴平社は明治四十一年四月二日に境内神社として村内より移転されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                   拝殿にも社の案内板が設置されている。
神社由緒書
埼玉県児玉郡北泉村大字栗崎一五二番地鎮座
金鑽神社
祭神 天照大御神 素盞鳴尊 日本武尊
由緒 當社ハ栗崎ノ総鎮守ニシテ社格ハ村社ナリ 當社ノ創立古老ノ口碑ニ曰ク往古延喜式名神大社金鑽神社ヲ奉還セシ所ナリト 中世児玉等ノ宗家庄太郎家長當地ニ築城以来崇敬最モ深カリシト 下ッテ德川時代ニ至リ諸侯交々所領セラルヽモ能ク尊信セラレタリ 次テ明和年中ニ至リテハ松平大和守外三家ノ所領トナリシカ崇敬厚ク改造ノ都度金品ノ寄進アリ 社格ハ明治五年旧入間県ヘ申立済
大祭日 祈年祭 二月二十五日
    例 察 十月十九日
    新嘗祭 十二月十五日
 
                                      案内板より引用  
 
 社殿の左側に祀られている境内社・天神社    天神社の左並びに祀られている琴平社
       
         天神社・琴平社の奥で斜面上に祀られている石祠・石碑群
 一番手前で左側に見える石碑は「猿田彦大神」。その奥で、右側にある石碑は「蠶影大神」。一番奥に見える石祠二基及び石碑は、左から「諏訪神社」「石神井神社」の石祠、「摩利支天」と刻印された石碑。 
「蠶影大神」に関しては、413日の蚕影祭があり、この祭りは養蚕倍盛を祈る祭りで、各家庭に五色の祓串で蚕室を祓い、蚕の大当たりを願った。昭和60年ころから養蚕農家が皆無となり、祭典中止の意見もあったが、今までのお礼の意味を込めた祭りとして続けられている。境内の石碑の前で祭典を行う。供えた五色の祓串は、祭番の班長が戸数分ずつ各班長に渡して配布するという。

 社殿の奥で、諏訪神社・石神井神社等の石祠や石碑の右側並びに祀られている石祠等もある。

一番左側の石碑は「御嶽山三社太神」、右並びに祀られている石祠は「八幡神社」「戸隠神社」「雷電神社」(写真左)。更にその右側には「愛宕神社」「八坂神社」等の石祠が、一番右側には「富士仙元大菩薩」と読める石碑が祀られている(同右)。
 八坂神社の祭りもあり、7月15日の八坂神社祭は「お祇園」とも呼ばれる夏祭りで、子供神輿が地域内を練り歩く。昭和50年代中ごろから15日に近い土曜日に実施されている本庄市全体の神輿パレードに参加するようになったので、祭日を変更している。子供神輿の渡御は、男女の小学生を中心に保護者の子供会役員・自治会長・総代など地域の役員が参加するという。
       
            社殿奥に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
               社殿から斜面下の鳥居を望む。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄の地名(本庄地域編)HP
    「境内案内板」等
                
      
             
        
  

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