古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

的場八坂神社

 中世において、武蔵国を代表する豪族の一派に「河越氏」がいた。河越氏は平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族で、坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、河越館(現埼玉県川越市上戸)を拠点として国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を取りまとめていた。
 因みに、河越氏の発祥地は『吾妻鑑文治二年条』に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」と見え、高麗郡上戸村(川越市)の山王社及び常楽寺附近といい、今の入間郡河越宿は太田道灌の築城後に河越と呼んだそうだが、『新編武蔵風土記稿 高麗郡的場村(川越市)』には「此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、(中略)三芳野塚 村の艮に當り、陸田の中にあり、匝三四十間、高さ三間餘、塚上には雑木生茂れり、是ぞ三芳野鄕の基本にして、今川越の城中に鎭座せる、三芳野天神の舊地なりと云」。
 また『同風土記稿 上ハ戸村』には「もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、山王社 大廣院持、當社は上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして、(中略)西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり。又當社の古鐘、今川越の養寿院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず、銘文の略に曰、武藏國河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣経重、文應元年云々」「常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、」「大廣院 本山修驗、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回國雑記】に河越と云る所に至り、最勝院(大広院先祖)と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる云々」として、
坂東八平氏秩父氏の嫡流である河越氏は「三芳野里河肥庄的場村」に居住して河越氏を称したという。
 さて事実は如何なものであろうか。

        
             ・所在地 埼玉県川越市的場1874
             ・ご祭神 須佐之男命
             ・社 格 旧的場村下組鎮守
             ・例祭等 例祭(天王様) 415
 的場若宮八幡神社から埼玉県道114号川越越生線を再度的場駅方向に進み、「的場」交差点をそのまま直進、JR川越線の「的場県道踏切」の手前で、進行方向右手に的場八坂神社は鎮座している。
 踏切手前には、社に隣接している「的場下組自治会館」に通じる道幅の狭い路地があり、そこから自治会館へ入り込み、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  的場八坂神社正面
 的場地域は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、当社の鎮座する下組は、地域の中でも古墳等の遺跡も多数あり、古くから開けたところとされている地でもある。的場八坂神社の創建年代等は詳らかではないが、旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、的場村下組の鎮守として祀ったといい、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。その後、明治年間に糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀している。
        
                                    境内の様子
    参道両側に並ぶ桜の木々の青葉が引き立ち、交通量の多い県道沿いに鎮座している
                 にも関わらず、落ち着いた境内の雰囲気にマッチしている。
        
                    拝 殿
 八坂神社  川越市的場一八七四(的場字下宿)
 的場は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、数多くの遺跡や古墳が点在する。中でも当社の鎮座する下組は、的場の中でも古くから開けたところとされ、的場三十塚または糠塚と呼ばれる古墳が見られる。
 当社は、本来隣接する旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、字の鎮守として祀ったものとされる。当社創建を示す記録はないが、戦前、氏子が調べた際、三三〇年前になるといわれ、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。このほか、安永八年、文化元年、明治一五年の再建の棟札が現存する。
祭神は須佐之男命である。本来、当社は牛頭天王と称していたが、明治二年の神仏分離により社号を八坂神社と改めた。
 境内社の稲荷社は、糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀したものである。社般もその時に移したものであるが、跡地には、この稲荷社を古くから祀ってきた一二、三軒により新たに社殿が造営され、跡宮稲荷と称して現在も祭りを続けている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 的場村』には加藤氏に関して以下の説明文を載せている。
「舊家者八三郎 加藤を氏とす、天正の頃より累世里正たり、是村草創五軒の百姓と云る其一なり、鞍・鐙・槍等先祖より傳來の品持せり、七右衛門も亦その一軒なりといへり、其餘の三軒は今つまびらかならず、」
 
   拝殿前に設置されている社の案内板                        本 殿 
 当社の祭りは、『新編武蔵風土記稿』に「天王社 例祭六月十五日」と載せているように、長く615日に祭りが行われていた。その後、大正期に入り、祭りが春蚕の上がりと時期を同じくするため、415日に変記された。
 氏子はこの祭りを「天王様」と呼び、大正期までは法城寺に保管されている獅子でササラ獅子が奉納されていたが、現在ではその伝承者もいなくなっている。また、この祭りの際には、神楽が下組の南・東・北・西の順に神職の先導で練り歩き、最後に入間川の中に入って揉んだというが、戦後、神輿の行列が地域の交通の妨げになるという事で通行許可が下りなくなり、現在では古い朱塗りの女神輿と明治2312月に造られた白木の男神輿が社務所前に飾られるだけとなっている。
 
        拝殿の左側に祀られている境内社・糠塚稲荷神社(写真左・右)
        
                境内右側隅にある薬師堂
 当社では、91日に境内の薬師様と初雁塚上に祀られている浅間神社の祭りが境内で行われている。薬師様は現在の霞が関北から出土したものといわれ、明治期当社の境内に移されたものである。現在は、旧神職家の吉田家が薬師様を保管し、祭り当日堂内に祀るとの事だ。
        
                       社殿より参道方向を望む。
 下組の曹洞宗的場山三芳院法城寺境内には、三芳野天神社が祀られ、神体は一寸八分の金の天神様で、白檀で作られた渡唐天神像の腹籠(はらご)もりとなっているという。祭日は425日(以前は225日)で、神職が出向して八坂神社役員の参列により祭典を行っている。なお、廓町の三芳野神社はこの社から文明五年に勧請したものであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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