古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山田八幡神社

 氏子の口碑によれば『八幡様は、日本武尊が東国平定の時に剣を祀ったのが始まりと伝え、昔、境内より出土した73㎝程の鉄剣を社宝としている。このころは八幡様とは呼ばずに、単に神様といっていたが、後醍醐天皇の時に宗良親王が都から逃げ延びて来られ、京都の岩清水八幡宮を合祀してから八幡様になったと伝えている。
 また、かつてこの地は武蔵野の真中であり、辺り一面広い原っぱで、当社社家は「原摂津」と称し、摂津より隠棲、志を垂れるとして、地名を「志垂」としたという。そしてこの八幡様を守る神主さんは、この地の様子から「原」と名乗ったといわれ、天長年間(824834)摂津に大洪水ありし時使者を遣ったとの口碑あり、原家はその頃の移住と考えられている』という。
 当社は今でもこの地域で一番古い神社といわれ、厚い信仰を集めている。
        
            ・所在地 埼玉県川越市山田340
            ・ご祭神 誉田別尊
            ・社 格 旧志垂、府川村鎮守・旧村社
            ・例祭等 元朝祭 春祭り 420日 例大祭 914日 
                 新穀感謝祭 
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        北山田八幡神社から東方向に400m程に鎮座する山田八幡神社
                道路沿いにある社の立看板
        
                  山田八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「府川村」の解説
 高畑村の南、入間川右岸の低地に立地。府河とも書く。永禄八年(一五六五)一二月一八日の梶原政景書状(三戸文書)に「河こへのしやうふかわのかう」とみえ、「としやう」(三戸駿河守妻)は父より譲られた府川郷などを甥の政景(太田道誉の子)から安堵されている。天正五年(一五七七)に竹谷源七郎と大野縫殿助からの隠田摘発の訴により府川郷の検地が実施された。田一四町五反余(分銭七二貫余)・畠二四町二反余(分銭四〇貫余)で、給免分を引いた定納分を永楽銭で換算すると永四六貫三五三文となる。このうち検地による増分二九貫余のうちから訴えた二名に賞として五貫文を与え、かつ両名を代官職に任じ、以後年貢として四一貫余を毎年岩付いわつき城(現岩槻市)へ納入するよう命じている(同年五月二六日「北条家印判状」大野文書、同日「北条家検地書出」竹谷文書)。
『日本歴史地名大系 』「志垂(しだれ)村」の解説
 向小久保村の北、入間川と赤間川に挟まれた低平地に立地。田園簿に村名がみえ、田高一四三石余・畑高六四石余、川越藩領(幕末に至る)。検地は慶安元年(一六四八)に実施され、検地帳写(川越市史)によれば名請人二五名、うち屋敷持二〇。五町―三町所持が二名、三町―二町所持二名、二町―一町所持五名、三反以下の者一二名がいた。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二一六石余、反別田一四町六反余・畑六町九反余、ほかに開発分高一二石余(反別田八反余・畑四反余)がある。
 
  社の入口付近に設置されている案内板     参道左側に祀られている境内社・御嶽社
 山田八幡神社本殿 付元禄十年棟札一枚
 市指定・建造物
 山田八幡神社は、かつては志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・府川の十ヶ村の鎮守でしたが、江戸時代中期には、府川村と志垂村の鎮守となったといいます。
 本殿は中規模の一間社流造で、屋根はこけら葺です。全体にわたり造りは堅実で、地方色を感じさせません。装飾は蟇股・虹梁・木鼻の絵様程度で格調の高さを感じます。造営年代は棟札により元禄十年(一六九七)と判明します。また、宝暦十三年(一七六三)に板書きされた造営記録が残されています。これによれば、元禄八年正月に普請初があり、宝暦十三年にかけて屋根葺替、御宮塗替、境内の整備などの修理を行っています。修理は地元府川村や高沢町の人などが願主、川越町中店持衆二十三軒からも寄進を集めており、かなり広い信仰圏をもっていた様子がうかがえます。保守的、伝統的な造りと意匠をもった本格的な建築であり、棟札によって造営年代も判明し、川越の江戸中期を代表する神社本殿といえます(以下略)。                          
                                      案内板より引用
        
              綺麗に整えられている参道・境内
『新編武蔵風土記稿 府川村』
 八幡社 祭神は譽田別命なり、神體は束帶銅像長一寸、鎭座の年代詳ならず、社傳に康永三年再興ありし由を云、又土人のに昔はいと全盛なる社にして、近鄕志垂・宿粒・網代・谷中・同本鄕・菅真・向小久保・比企郡角泉・當村總て十村の鎭守なりしが、中古各村に鎭守を勸請せしより、今は唯當村と志垂村の二村鎭守とせりと云、又前に出せる天正五年の文書に、神田二貫文と載たり、其頃社領もありしこと知るべし、
 末社 天神社 稻荷社
 神職原攝津 吉田家の配下なり、
 第六天社 神明社 以上二社、村内の修驗吉祥院持、
 白山社 神職原攝津持、

 
 御嶽社の先に祀られている境内社・白山社    白山社の先に鎮座する境内社・稲荷社
虫歯に悩む子供がウヅキの箸を奉納したという。
        
                    神楽殿
        
                    拝 殿
 八幡神社  川越市山田一四八(府川字向田町・志垂字宮下)
 当社の創建は、社記に「往古源三位頼政卿ノ奉祀セシ由俗ノ口碑ニ伝ヘリ本社ニ古器円形ノ鉄燈龍一個現存ス表面源三位頼政奉之、承安元年辛夘トアリ、其他白木椀八個アリ、文明三辛夘年三月中神主原市太夫宅舎火災ニ罹リシ時記録等灰燼ニ属セシト云フ、其後慶安元年子八月十七日松平伊豆守領主タリシ時社地二畝十七歩八幡免地先縄ヨリ除ヶ中田壱反四畝弐拾歩右同断先縄ヨリ除ヶ、屋敷壱反七畝二十六歩八幡社神主藤兵衛先ヨリ除ケトアリ三口合三反五畝三歩右ハ河越領ノ内志垂村御検地帳ニ記載アリ、往昔志垂・府川・宿粒・向小久保・石田・菅間・谷中・石田本郷・高畑・角泉ノ十ヶ村ノ鎮守タリ」とある。
 承安元年銘の鉄灯籠(高さ二五センチメートル)は現存し、また白木供椀は七個保存されている。
『風土記稿』府川村の項に「八幡社 祭神は誉田別命なり、神体は束帯銅像長一寸、鎮座の年代詳ならず、社伝に康永三年再興ありし由を云、又土人の説に昔はいと全盛なる社にして、近郷志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・当村総て十村の鎮守なりしが、中古各村に鎮守を勧請せしより、今は唯当村と志垂村の二村鎮守とせりと云(後略)」と載せる。
 現在、元禄一〇年二月の棟札と宝暦一三年に板書きされた造営記録が社蔵されている。板書には「御宮立替元禄八亥正月普請初メ願主綾部甚左衛門、御宮ぬ里替絵具細色土台石宝暦十三年未二月十三日普請初メ、御宮廻はめ板寄進川越町中西村店持衆廿三軒ニ勧化寄進、御宮前かうし戸寄進、御宮やねかや大門石橋寄進願主苻川村小沢権左衛門、御宮内ぬ里替細色願主高沢町小沢傅八願主苻川村山下清左衛門、宝暦十三年未四月十八日」とあり、今日の本殿である。
 内陣内壁は、極彩色で鳳凰に竹(笹)が描かれ、騎乗八幡神像(一〇センチメートル)及び阿弥陀三尊(三センチメートルから五センチメートル)が安置されている。
 拝殿に掲げる算額(市指定文化財)は当地の戸田新三郎高常の門人の上げたもので、三つの問題と解答を示し、六三名の門人名がある。
 明治五年に村社となり、同二八年社殿を修築し、同三四年府川の第六天社・同白山神社を合祀した。次いで明治四一年には府川の神明神社を合祀した。
 合祀した神社について、『風土記稿』に「第六天社神明社、以上二社、村内の修験吉祥院持」とあり、また白山社については「白山社 神職摂津守持」と載せている。
 祀職である原家はシマビラキとも呼ばれ、当地の草分けであり、伝えに摂津より先祖が当地に来て隠棲し、地名を志を垂れるとして志垂としたという。天長年間河内摂津に大洪水があった時に、お見舞の使者を送った口碑が残り、このころの移住であろうか。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              社殿の奥に祀られている末社・金鶏神社

 氏子区域は、古くは志垂・宿粒・網代・谷中・石田・石田本郷・菅間・向小久保・府川・比企郡角泉の十ヶ村であった。その後、江戸時代中期に各村に鎮守が出来たために、府川と志垂の二村が氏子となる。因みに、比企郡角泉が離れて氏子であったのは、秩父の石黒某なる者が戦に敗れて落ちて来た時、祀職原家の先祖がこの地に匿ったことによるという。
 氏子の中心となる志垂と府川両村の草分け的な存在として、志垂が当社の祀職である「原家」で、府川には「府川五名(ごみょう)」と呼ばれる綾部家・長坂家・島崎家・小林家・深谷家であるという。府川村は現在川越市府川となり、志垂村は川越市北山田・南山田と変遷し現氏子区域である。この地域の氏子は古くから居住している人々であり、今日でも古い行事を残している。
・17日は七草で、各家庭では主人が早朝に畑の菜を採り「唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先にととんとん」と刻み、粥に入れて炊く。これを神棚に上げた後、皆で頂く。
・114日は「団子刺し」といい、柳・欅・梅の枝に米の粉で作った団子を刺し氏神様に上げ、家の神棚や主な場所に飾る。同時に粥掻き棒を作り、翌15日の小豆粥を掻き回し、後に苗床の水口に祀る。15日は小正月で、古くは小豆粥でこの年の豊凶や天候を占った家もあったというが、現在は詳しく知り得ない。
・111日は蔵開き。紙垂をつけたもちの木、または榊の枝を持って庭先の畑や植木場・苗間に行き、高まった土に枝を挿して米を撒いた。この日に蔵のある家では仕事始めとして蔵の戸を開く。
・3月初午は屋敷神に色紙で作った幟を立て、赤飯に豆腐・油揚げ・魚・スミツカリを供える。
・33日は女子の節句で草餅を作り、どの家庭でもお祝いする。但し5月の節句はなく、氏神様の祭りに参拝することで替えられた。今日の児童安全祈願祭に変わったものである。
・87日は七夕で蒸し饅頭を作って食べる。十五夜はす饅頭をつくるが、十三夜は行わない。
・1210日は「十日夜(とうかんや)」で、子供は藁鉄砲を作ってもらい、近所の家の周りでこれをたたき、小遣いをもらったものである。
       
               境内に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia
    「山田八幡神社
HP」「境内案内板」等
 

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