八幡山古墳
古墳群 若子玉古墳群 県指定文化財
埋葬者 武蔵国造物部連兄麿とも言わてているが詳細は不明
築造年代 7世紀中頃(推定年代)
八幡山古墳は埼玉古墳群の北北東方向にあり、距離にして2km位の位置し、工業団地内の八幡山公園内にある。正直古墳の周りは工場と民家で囲まれて、あまりの不釣り合いなコントラストにびっくりした。しかしこの石室には圧倒的な存在感があり、一見の価値がある。ちなみに八幡山古墳の名称は、江戸時代から石室内に八幡社を祀ってきたことに由来する。
八幡山古墳のある「八幡山公園」正面入口 石室の手前左側にある「八幡山古墳整備記念之碑」
県指定史跡八幡山古墳石室の説明版も石室の手前左側にある
この古墳は若小玉古墳群という古墳集団の一つに数えられ、元々の大きさは直径80m、高さ9.5メートルの円墳で、石室の上10m近くの高さまでお椀を伏せたように土が盛られていたという。1944年3月31日、埼玉県史跡に指定された。新撰武蔵風土記稿に横穴式石室の一部が露出し、石室内に八幡社が祀られていたことが記載されている。江戸時代より既に石室の一部が露出していたが、1934年11月に小針沼の干拓工事で盛土が取りさられて石室が完全に露出。その様子が、飛鳥の石舞台古墳に似ていることから別名「関東の石舞台」と形容された。
石室の構造は羨道・前室・中室・奥室からなり、全長は16.7メートル、奥室の高さ3.1メートルの大きさという。この長さは全国で2番目に長い石室であり、しかも1番目は奈良の見瀬丸山古墳で、天皇陵指定されているため中に入ることはできない。つまり現在内部を見ることができる、一番大きな石室とも言える。
また1977年の発掘調査で、銅椀・須恵器・直刀など多くの遺物が出土しており、またそのほかに絹布に漆を塗り、繰り返し重ねて作られた棺の破片(乾漆棺、漆塗木棺片)が出土した。畿内の終末期古墳と共通する出土品が確認されたことから、被葬者が宮廷ときわめて近い関係の人物と考えられている、というが・・・
周りの工場の風景とは全く不釣合いではあるが、それでいて圧倒的な存在感のある石室
参拝日が平日のため柵は鍵がかかっていた。 柵から手を伸ばして内部を撮影
後で知ったことだが、この柵は石室内の公開は土曜日・日曜日・祝日(年末年始を除く)であり、平日はあいていないとのことだ。
この八幡山古墳は「さきたま古墳群」の築造が戸場口山古墳を以って終了した後を引き継いだ形で形成された若小玉古墳群の主墳であり、東国では珍しい夾紵棺という漆塗りの棺が出土した。高貴な人物の埋葬が考えられ、聖徳太子の家来で武蔵国造に任命された物部連兄麿の墓ではないかと専門家の中では考えられているがどうであろうか。
近くで見るとやはり要塞のような重厚なつくり
上部の蓋の部分には結晶片岩を使用しているのではないかと思われる。この石は長瀞、嵐山などの荒川上流域に大量に存在していて、現地でも末野神社、波羅伊門神社など多くの神社の階段や、石室に使用されている。
*結晶片岩
いろいろな岩石が高い圧力によって変成を受けた岩石で,海洋プレートが海溝で地下深くに沈み込んだときに,海洋プレートの上の堆積物や海洋プレートそのものが,地下深部の強い圧力を受けてつくられる石といわれている.もともとはいろんな石だったものだったが,強い圧力を受けたために,非常に硬く,細かい縞模様ができているのが特徴で、結晶片岩は北海道中央部や、嵐山町、長瀞、また群馬県藤岡市の三波川結晶片岩、長野県を経て紀伊半島、四国、九州まで細長く続いている。またこのラインは丁度活断層上に位置しているのも特徴である。
またこの古墳がある地名は「大字 藤原」という。この周辺に在住の知人から聞いた話ではこの地域は昔「藤原氏」が移住した地域という。詳しい話は聞かなかったが、地名は古墳、神社同様生きた歴史の証人である。地名は時の権力者によって変わることもあり、詳細で緻密なな研究が必要だが、この行田市の深い歴史と数多くの遺跡をみると、何かしらの関連性を感じずにはいられない。
最後に「藤原」について以下の説明をしている書物があり参考資料としたい。また「藤原」は「藤」+「原」で本来の名前は「藤」であり、「藤」についても掲載する。
藤原 フヂワラ
百済(くだら)は管羅(くだら)と書き、管羅(つつら)と読み、葛(つつら、つづら)の佳字を用いる。原は古代朝鮮語の村の意味。百済族の集落を葛原(フヂハラ)と称し、藤原の佳字を用いる。葛ノ(フヂノ)、藤ノは藤原と称された。古代備前国に藤野県あり、養老五年に藤原郡と称し、神亀三年に藤野郡と改め、神護景雲三年に和気郡となり、和名抄に和気郡藤野郷(岡山県和気町)を載せ、布知乃と註す。また、葛野(かどの)と称し、和名抄に山城国葛野郡葛野郷を載せ、加度乃(かどの)と註す。京都府右京区太秦の地で秦族の渡来地である。葛野郡の桂川(かつらがわ)は葛野(かつらの)より称し、古くは葛野川(かどのがわ)と称した。日本書紀・応神天皇六年二月条に、葛野川流域の宇遅野(宇治市)で天皇が詠んだ「千葉の、葛野を見れば、百千足る、家庭も見ゆ、国の秀も見ゆ」という国ほめの歌が見られる。千葉は葛野にかかる枕詞で、藤原族は千葉氏を名乗る者が多く、桓武平氏千葉氏は藤原部の首領である。奥州には藤原氏、千葉氏が同じ居住地に多く存す。入間郡黒山村字藤原、秩父郡下日野沢村字藤原、大野村字藤原あり。
藤 フヂ
葛(ふぢ)は、葛(つつら、つづら)、管羅(つつら、くだら)の転訛にて、百済(くだら)を指す。山城国葛野郡(かどの)は韓人秦氏の本拠地である。葛野川(かどのがわ)は別名桂川(かつらがわ)を称す。桂は葛野(かつらの)の転訛なり。葛野(かどの、かつらの)は葛野(ふぢの)とも称す。備前国藤野県は養老五年に藤原郡となり、神亀三年に藤野郡と改称す。藤ノは藤原と同じ意味。葛原(ふぢはら、くずはら)は佳字の藤原(ふぢはら)を用いる。原は古代朝鮮語の村の意味。百済族の集落を藤原と称す。大ノ国(後の百済)の渡来人集落を意富(おお、おふ)と称し、意富郷・意布郷に葛原部、藤原部が多く存す。フヂワラベ参照。藤原鎌足が鞍作臣蘇我入鹿暗殺直後に古人大兄皇子(天智天皇の兄)が言った言葉に「韓人、鞍作臣を殺す」(皇極四年六月紀)と見ゆ。鎌足は韓人、即ち百済人であった。また、伊藤・加藤・工藤・佐藤・斎藤などの藤(とう)は唐(とう)の佳字にて、唐(から)は韓(から)の意味なり。各市町村に存す。