古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境小此木菅原神社

 嘗ての「小此木村」の開村伝承はこのような言い伝えがある。
小此木氏の先祖左衛門源長光は、新田義貞に従って戦さに出たが、負けてこの地に逃げこんだ。アサヒッピラの荒野を拓いて小屋を建て、そこで農業を営んだ。そこで小此木には下ゴヤ、中ゴヤ、上ゴヤという地名がある。小此木氏は、村の草分けの家だという。江戸時代以後、この地には新田開発が進められ、小此木の新田組、下淵名の西窪新()等これに関する地名が残っている。
『伊勢崎風土記』
「小柴村、元亀天正の際に小柴左衛門長光・能登国の人なり、来りてここに住む。境町(古の仮宿村)は小柴村を割きたり、長光の累跡あり、市長(なぬし)・坊正(くみがしら)は多くは長光の従者の子孫なり。中島村は小柴村を割きたり、小柴左衛門ここに居りき。百々村に稲荷祠あり、天文十五年小柴左衛門長光、能登国石剣山より之を移せり」
『境町の民俗』 「小此木長光舘趾」
 境城主小此木長光の拠ったところと伝えられ、福寿院の東南方二百歩の地にある。いま此処に長光夫妻供養塔を存し、無住阿弥陀堂がある。かつてこの堂宇で太子像を発見し、この部落が昔鍛冶職の盛んだったことを思わせる。なお長光の子孫といい小此木姓を名乗る旧家がある。

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境小此木216
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 春祭・入学祈願祭 43日 夏祭 七月吉日 秋大祭 113日 他
 境下蓮町三柱神社から一旦北上し、群馬県道142号綿貫篠塚線に合流後東行する。目の前に広瀬川の堤防が見えてくる周囲一面長閑な田畑風景の中、進行方向正面やや右手にポツンと深い森林に覆われた境小此木菅原神社の社叢林が見えてくる。
        
                 境小此木菅原神社正面
『日本歴史地名大系』 「小此木村」の解説
 中島村の西に位置し、西は那波郡飯島村・国領村(現伊勢崎市)に接する。現在北方を広瀬川が東流。平坦地ではあるが窪地が多い。「伊勢崎風土記」には村名について、天平神護(七六五〜七六七)の頃は朝日の里といい、のちに利根川水傍の地のため芝草が多いので小芝(こしば)村、のちに小柴村となり「近古、柴字を割き読みて、小此木村と曰えり」とある。さらに同書に「小柴村を割きて境町・中島・島村の三村を置けり」とある。
 
    鳥居の右側に建つ社号標柱        社号標柱の後方に設置されている案内板
 伊勢崎市境小此木地域は、利根•広瀬両川の間にあり境町随一の肥沃の地である。とくに桑園、根菜類がとれることは黒土層が深いからで、掘っても赤土に達しない。ゴボウ(牛蒡)などは1mから1.5m位太く真っすぐ伸びた優秀なものがとれる。対して、稲作は飯米分だけ出作し、4㎞の遠方の水田まで農耕に出掛けるが、近年は「オヵタンボ」とよぶ畑地を水田化した稲作を行うようになった。いずれも水利に恵まれなかったからで、発動機によって井戸の揚水が行われていたという。
 地域内は、平坦地ではあるが窪地が多く、村中道路は未開発で狭く曲りくねっている。商業は少なく大部分農業で、次いで機業が盛んである。
        
                綺麗に整備されている境内
 天平神護(七六五〜七六七)の頃に「朝日の里」と呼ばれたころはわずかな人家であったと推測される。というのも、江戸の初めにも十数軒にすぎない集落であったが、農民の移転土着は盛んで、江戸時代末期には家数一五五軒、人数六九八人の大村になった。
 この地域は、肥沃な土地と河川交通にめぐまれていたが、かつては一部の地域をのぞいては農業の開発がおそく、長い間原野山林のままであったと思われる。境地区は面の萩の原中に開かれた街並でいまに萩原の地名を残し、小此木地域は柴草が生い茂っていたので「小柴村」、のちに「柴」の字を割いて「小此木」としたといわれている。
        
                    拝 殿
 菅原神社誌
 主祭神 贈正一位太政大臣 菅原道真公
 合祀神 素盞鳴尊 大稲田姫命 八柱御子神
     大国主命 建御名方命 木花咲姫命
     加具土命 豊受姫命  大雷命
     日本武尊 応神天皇
 由緒 古伝によれば日本武尊御東征の折当地一帯を眺められ朝日の里と仰せられたという利根・烏川両川の運んだ沃土と水利の地に何時か人々が住み着き 鎌倉時代新田氏に属した小此木彦次郎盛光が此の地を領北野雷電の松の傍らに天満宮を祀る その後戦国時代金山城主由良氏に属した小此木左衛門尉長光 境城に據って此の地を領し天満宮を興し天正十八年徳川家康公江戸城以後祭祀は里民の手に移り寛永年間社殿造営 安永年間改築 明治十一年村社に列し地内各組の小社を合祀して現在に至る
 上 愛宕神社・天神社 中 稲荷神社・熊野社・諏訪社
 新田北下 住吉社・浅間社 原 八幡社(以下略)               案内板より引用
 
            社殿の左側に祀られている英霊殿(写真左・右)
       
        本殿の裏に祀られている(?)多数の石祠と庚申塔群に旧狛犬
        この石祠は、案内板に記載されている各小字で祀られていた愛宕神社・天神社
             稲荷神社・熊野社・諏訪社・住吉社・浅間社・八幡社等であろうか。
             
                      境内にある「当社沿革並合社碑記」
                 当社沿革並合社碑記
      元亨年間一ノ巨松アリテ老幹半天二真立シ松聲風二激シテ雷ノシ〇〇
      雷電松ト称ス 樹下二一石祠アリテ其ノ祭神詳ナラズ 然シ小此木〇〇〇
      盛光崇敬ノ念厚ク神領ヲ寄進シ後小此木左衛門尉長光此ノ地二封〇〇〇
      ルヤ天文二年
五月二十五日領土ノ安全ヲ祈リ幣帛ヲ奉ル元和年間巨松〇
      チ村ノ北方荒野二位ス之レ所謂北野ナル〇故二天満宮ヲ奉祀セル〇〇〇
      リトシテ之ヲ主祭ス寛永八年
九月神殿ヲ営〇後安永二年十月社殿ヲ〇〇

      シ明治十年七月村社二列ス同四十年十月廿三日宝暦年間創建二〇〇〇〇
      士塚二祭祀セル浅間社及ビ天明八年六月創始セル字神明ノ八坂社並〇〇
      内末社秋葉社ヲ合祀シ次二字原ノ八幡宮及ビ境内末社菅原社雷電社大己
      貴社字熊野ノ熊野社及ビ稲荷社並二境内末社菅原社琴平社字南塚越ノ〇
      吉社字神明ノ神明宮、字諏訪ノ木ノ稲荷社ヲ合祀シ明治四十一年
十二月
      日更二字伊勢久保ノ熊野社及ビ境内末社城峯社神明宮字前久保ノ諏訪社
           ヲ合祀ス 大正十五年
六月四日幣帛供進指定神社トナル
        
                             境小此木菅原神社遠景 


参考資料「境町の民俗」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「境内案内板・石碑文」等
 

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