古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上寺山八咫神社

 
        
             
・所在地 埼玉県川越市上寺山4983
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧上中下寺山村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 422日 まんぐり 714
                  
秋祭り(お日待)・獅子舞 1015
 鯨井春日神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行し、入間川を渡り、同県道160号川越北環状線と交わる「上寺山」交差点を左折、その後450m程進んだ路地を左折した後暫し西行すると、その突き当たりで、入間川堤防が目の前の静かな場所に、上寺山八咫神社は鎮座している
        
                 上寺山八咫神社正面
 川越市上寺山地域は市北部で、平均標高16m程の入間川右岸低地に位置している。『新編武蔵風土記稿 上寺山村』項において「陸田少く水田多し、用水は小ヶ谷村より入間川を引て灌ぐ」と載せているように、地域内の大部分は田畑となっているのだが、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線周辺、及び以北には宅地化もされている地域でもある。
『寺山』という地名由来として、上記『風土記稿」によれば、天文年間(153255)頃に寺山佐渡守宗友が住していたと伝え、村名の起源ともいうが、同書は続けて「然れども其邸跡今何れの所なりや傳らず」とも載せていて、風土記稿編者にもその真偽の程は定かではないような記述となっている。
        
       鳥居の手前で、参道左側に建つ「村社八咫神社神籬聖趾」の石碑
 八咫神社の創建年代等は不詳であるが、当初は現社殿より入間川寄りの西北に鎮座していて、大正59月堤塘改修の為現社地に遷座した。小名八ツ口に鎮座していた関係で「八口神社」と称していて、このことから、出雲神話にでてくる八岐大蛇を素戔嗚尊が退治したように、八岐大蛇を入間川に見立てて、毎年氾濫する入間川を和める為、神を祀ったものであろう。信仰は氏子のみ成らず当地を治める松平伊豆守や松平大和守等の領主らの篤い保護を受け、また上中下寺山三ヶ村の鎮守として崇敬されていた。当社に奉納される「まんぐり」「上寺山の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されているという。
        
        境内は堤防が目の前にあるためか、境内は静まり返っている。
        
     参道途中にある市指定文化財である「まんぐり」「上寺山の獅子舞」の案内板
 まんぐり 
 市指定・無形民俗文化財
 七月第二日曜日(昔は七月十四日)に行われる。青竹に麦わらを束ねて巻き、これに大天狗・小天狗と呼ばれる幣束と五色の小さな幣串を飾ったボンテンを作る。
 そして、フセギの青竹二本・法螺貝・ボンテンの順で行列を組み村回りした後、入間川に飛び込んで水をかけ祈禱する。ボンテンは八咫神社境内にある石尊さまに納められる。大山信仰を基にした夏祈禱の行事である。
 昭和四十七年二月八日指定
 上寺山の獅子舞 
 市指定・無形民俗文化財
 十月第三土曜日(昔は十月二十二日)に行われる。大獅子・女獅子・中獅子の三頭の獅子を山の神(仲立ち)が先導する。これらは男子が、ささらっこは女子が演じる。曲目は、竿掛りを含み、「仲立ちの舞」「十二切の舞」などがある。途中誉め言葉がかかるのも特徴である。
 起源は不明であるが、秋元侯が藩主であった頃、竹姫の眼病平癒のために、二十一日間獅子舞を奉納して祈願したところ、たちどころに直ったため、葵の御紋の入った麻幕を下賜されたとの伝承が残されている。
 平成四年八月七日指定

 当地に伝承されている「マングリ」と「獅子舞」の運営には、年行事が当たる。年行事は親年行事(40歳位)・中年行事(25歳位)・少年行事(15歳位)に分かれ、それぞれ二名ほどが務める。村ではこの年齢層を若い衆と呼び、任期は1年で、交替はマングリの日に行う。また、年行事の仲間入りについても、この日に行うとの事だ。
 マングリは、疫病除けの行事である。これは梵天と呼ばれる数本の幣束を差した藁束に長い竹竿を通し、村を祓うものである。梵天の本体は長さ二尺六寸、直径は一尺ほどの藁束で、これに大天狗・小天狗という大きな幣束を二本立て、更に五色の小さな御幣を氏子数本分差し込んである。マングリの行事では、この梵天を担いで若い衆が八咫神社を出発し、県道沿いに村を下り、道々練ってから村境の川の中にこれを立てて祈祷する。さらにこれを八咫神社に持ち帰って境内の石尊様に納める。なお、梵天に差してある五色の御幣は疫病除けとして各家庭に配られる。
 獅子舞については、特別に歴史的な伝承ではなく氏子はササラ獅子と呼んでいる。獅子は大獅子・女獅子・中獅子の三頭で、獅子舞は1014日のお日待の日に行われる。古くは、1022日の八咫神社の例祭に併せて行っていたが、農作業と川越祭りの影響で変更されたという。
       
            参道途中には日露戦〇記念碑等の石碑が建つ
     写真では一番左側にみえる石灯篭が「まんぐり」行事で登場する石尊大権現
       
                    拝 殿
 八咫神社(やつくちさま)  川越市上寺山四九八-三(上寺山字寺山)
 当社は現在入間川東岸に鎮座しているが、大正二年堤防拡幅工事前までは当地から三〇〇メートル西北の堤外に鎮座していた。古くは、社名も現在の八咫神社ではなく、八口社と称していた。 また、小字名に八ツロがあり、おそらくここが元の鎮座地かと思われる。この八ツ口というのは出雲神話の中にある素盞嗚命が退治した頭尾八つに分かれた八岐大蛇からきており、出雲の簸川を大蛇に見立てたのと同様にこの八ツロは毎年氾濫する入間川であった。社の創立も、この洪水と八ツ口の地名にかかわるもので、入間川を和めるために神を祀ったものである。
 祭神は、素盞鳴命で、神仏習合時代に本地であった准胝観音を安置している。
 現存する棟札写しのうちの一枚は永禄一二年のもので「奉修造八口大明神祈念所」とあり、別当財泉院と書かれているが、現社殿の棟札である天保三年のものには、別当が「八口山林蔵院長久寺」と記されており、祀職に変遷があったことをうかがわせる。
『風土記稿』によると林蔵院は、本山派修験で、神仏分離により廃寺となっている。次いで同四年現社名に改称しており、これは神仏分離の影響と思われるが、口碑には、神社の杜に、もと鳥か多く棲んでいたことからこれを八咫烏と考え、社名に八咫をつけたという。 

                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿                本殿内部
        
             本殿奥に祀られている境内社四社合殿
             神明社・八坂神社・稲荷神社・姥神社
        
                                   社殿からの眺め

 ところで当地は江戸期、入間郡に属していて、『入間郡史 山田村上寺山 八咫神社』には次の一文が載っている。
八咫神社 村の北部にありて入間川の堤に接す。 境内広く、雑木大に繁茂せり。 素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命を祭る。 天平勝宝年中に社祠を建てたりと伝ふ。 思ふに此較的古社ならん。 八坂社、稲荷姥神祠等の末社あり。 今は指定村社也。 或は八咫神社を以て延喜式神名帳に所謂国謂地祇社に当てんとするものあり。 可なる所以を知らず」
 この項では、ご祭神が「素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命」の三柱となっている。素盞鳴尊、日本武尊」の二柱は有名な神様であるが、当初「鵬建角見命」はどのような神なのか皆目見当がつかなかった。そこで、調べてみると「賀茂建角身命」であることが判明した。
「鵬建角見命」は「賀茂建角身命」(カモタケツヌミノミコト/カモタケツノミノミコト)で別名「鴨建角身命」ともいい、この神は賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られている。
『新撰姓氏録』によると、鵬建角見命(賀茂建角身命)は神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされていて、別名「八咫烏」「八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)」という。まさにこの社の名称にピッタリ符合する神様だと合点がいった次第である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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