古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大寄八幡大神社

 武蔵国榛沢郡は東は幡羅郡、大里郡、南は男衾郡、西側は児玉郡、そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区というが詳細は不明である。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡だそうだ。
 
榛沢郡は古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳がある。その一方、延喜式神名帳には社名が載っておらず、平安時代には隣接する男衾郡や幡羅郡よりは小規模だったと見られているようだが、しかし郡衛である深谷市岡部の中宿(または仲宿)遺跡では、正倉と見られる大規模建物の跡が発見されている。武蔵国の郡衙跡として3ヶ所目、県内では初の発見例だそうだ。

 いわゆる小規模といわれる郡という従来の説に対して、大規模で立派な正倉の建物の存在・・・どうもすっきりしない
矛盾を感じる。
所在地    埼玉県深谷市榛沢486
主祭神    誉田別命(応神天皇)
社  格     不明 
       
由  緒   
 
現在の社殿は江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築され
         たと推定
例  祭
         不明


         
   地図リンク
 大寄八幡大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方面に向かい、針ヶ谷西の交差点を右折し、埼玉県道86号花園本庄線を本庄方向に北上する。県道86号線は最終的に352号線にぶつかるのでそこを左折し2kmほど直進すると、やがて右手側に大寄八幡大神社が見えて来る。駐車場はなかったので、周りを散策し神社の近くの公園に車を駐車し参拝した。

                 
            
        手水舎 深谷市指定文化財         手水舎とその奥にある御神木
       
                          神楽殿

       
                         拝     殿
  正直、このような静かな地に鎮座していること自体不思議で立派な社殿で、拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれていた。
       
            ガラス越しに本殿を撮影。本殿は深谷市指定文化財
       
                     拝殿左側にある説明板
大寄八幡大神社
  当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
 本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
 本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
 また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという。
                                                                                                                                                                                                                                案内板より引用
外宇新築拝殿吹替記念
  大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
 今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
 しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
 特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
                              昭和五十八年九月二十五日

                                              外宇新築拝殿吹替記念碑より引用
  
     
 

  大寄八幡大神社は、今でこそ八幡神社だが、この名称は戦後に呼ばれたものである。かつては、児玉宮御霊宮と呼ばれ、その後大寄大神社となり、現在の名称となったという。では、かつて名乗っていた児玉宮、御霊宮とはどのような神社だったか。少なくとも八幡神社ではない。

埼玉県苗字辞典では榛沢に関していくつかの記述がある。

榛沢 ハンザワ
 渡来人蕃族の居住地なり。和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、波牟佐波と註す。
  

 丹党榛沢氏 榛沢郡後榛沢村(岡部町)より起る。武蔵七党系図に「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図に「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」と。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「榛沢。丹治、本国武蔵」と見ゆ。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」と見ゆ。

二 鍛冶師榛沢氏 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とあり。常に先陣を勤める畠山重忠は工兵部隊であり、鍛冶木工頭領であった。其の配下の丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていた。風土記稿・後榛沢村条に「榛沢六郎成清社、村の中程小名蔵屋敷にあり。東光寺、本尊は薬師にて開基は榛沢六郎成清なり。陣屋蹟、古へ賀美郡安保の領主たりし安保氏の陣屋蹟と云伝ふ」と見ゆ。蔵(くら)は古代朝鮮語で銅を指す。薬師はタタラ師の守護仏である。安保(あを)は下野国佐野天命鍛冶一派の青木氏屋敷跡で古は青木村と称す。安保氏は無関係なり。是等の鍛冶集団支配頭が丹党榛沢氏であった。

榛沢の地名に関しては多くは鎌倉時代の由来がほとんどだが、「渡来人蕃族の居住地なり。」という記述には興味深い。
 また榛沢は地名を分割すると榛+沢となる。沢に関しては①山あいの谷川。源流に近い流れ、②水が浅くたまり、葦(あし)・荻(おぎ)などの草の茂っている所、などある地域の地形の状態を表す助詞である。すると本来の地名は「榛」ではなかったろうか。「榛」に関して同じく埼玉県苗字辞典では不思議な記述がある。
 
蕃 バン 中国は北方の異民俗を蕃(えびす)と蔑称した。大和朝廷は中華思想により朝鮮半島の渡来人を蕃と称し、姓氏録には諸蕃と記した。日本書紀・神功皇后摂政前期に「百済王は、今後末永く西蕃と称して、朝貢を絶やしませんと申しあげた」とあり。多くは百済人を蕃と称す。羊(ひつじ)条参照。佳字に番、伴、坂、半、榛等を用いる。

高麗神社の項でも紹介したが

 「北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。」

 
すべての渡来人が上記の特定の地域しか移住しなかったろうか。とても思えない。一部の人々は榛沢等に住み着いたとも考えられないだろうか。逆に言うと榛沢という地名はそれを証明しているのではなかろうか。

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