古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大和田浅間神社

 浅間信仰とは、富士山に対する信仰のうち浅間神社を中心とする信仰をさしている。アサマともよばれており,本来は火山に対する名称とする説もある。富士山に関する最古の文献である都良香【富士山記】には,875年(貞観17115日,山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり,白い噴煙の立ち上る様子を表現していると思われ、そしてこの山神に対して〈浅間大神〉と命名している。
 後世浅間大神は,木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一視された。この女神は神話上の美姫であり大山祇(おおやまつみ)命の女であり,天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃に位置づけられている。また神仏習合の過程で,浅間大菩薩とも称された。その後、近世に入り、そのなかから長谷川角行という行者が現れ,浅間神社から独立した富士講をつくった。
 長谷川角行が広めた富士講やその教義は、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。大和田地域に鎮座する浅間神社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つであるという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大和田338
             
・ご祭神 木花開耶姫命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 例祭 714
 大和田地域は吉見町の南東部に位置していて、東境は旧荒川と接している。この旧荒川は江戸時代初頭の瀬替えで流路が確定してから、昭和初期の近代改修で廃棄されるまで約300年間荒川の流路であったという。この旧荒川は、現河道の右岸側に3 kmほどの旧河道が現在も埋め立てられず河跡湖や河川として残っていて、所在地から明秋湖とも、埼玉県道27号東松山鴻巣線を挟んで北から順に明秋・鎌虎・蓮沼とも呼ばれ釣り場として利用されている
 瀬替え以前は和田吉野川の流路であったともされ、周辺地域では河道が蛇行していたことから水害が頻発していた。そのため、明治後期になり洪水氾濫対策として旧河道を堰き止め、新たに現河道を掘削したという。
        
                 北方向に伸びる参道
 大和田稲荷神社から埼玉県道76号鴻巣川島線を500m程南下し、コンビニエンスのある十字路を右折し、すぐ先にあるY字路を右折すると、民家の間に大和田浅間神社の参道が僅かに見えてくる。但し、その道幅は狭く、分かりづらいので通り過ぎてしまう可能性も高いので、目視で注意深く確認する必要がある。
        
          北方向に伸びる参道は行き止まり、西に方向転換する。
       すぐ先には鳥居があり、若干の上り斜面の先に社殿が鎮座している。
        
                 大和田浅間神社鳥居
        
                    拝 殿
 浅間神社  吉見町大和田三三八(大和田字下西谷町)
 富士浅間信仰は、室町末期から江戸初期に長谷川角行という行者が現れて、その教義を整え、富士講を広めたことから、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。当社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つである。
 社伝によれば、創建は元禄二年(一六八九)のことで、駿河国の富士山本宮浅間神社からの勧請である。享保六年(一七二一)には村人一六戸によって社殿の再建が行われたという。
鎮座地は大字大和田の南西の外れにある。これは、氏子集落から見て富士山が南西の方角に望まれることにちなんでいる。
『風土記稿』大和田村の項には「稲荷雷電合社 小名堤根の鎮守なり、蚊斗谷村の界にあり、彼村大行院持、彼村民も産神とす。稲荷社、村の鎮守なり、大輪寺持。浅間社 同持」と当社を含む三社が載せられている。これに見える大輪寺は稲荷社の西側にあった真言宗の寺院(明治三十一年火災により焼失)で、「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。
明治四年の社格制定に際し、無格社となったが、幸いにも合祀されることなく今日に至っている。近年では、昭和六十二年に社殿の改築を行った。なお、当社が「上浅間」と呼ばれるのに対し、境内にある石祠は「下浅間」の名称で呼ばれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」の解説に出てくる長谷川角行(かくぎょう)は富士信仰の行者で、富士講の開祖。また、神道(しんとう)教団扶桑(ふそう)教および実行教の開祖。その生涯については不明な部分が多く、伝記では、大職冠藤原鎌足の子孫といわれ、天文(てんぶん)10年肥前長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれたという。俗名・長谷川左近藤原邦武。
 角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で45分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。

     社殿手前で左側にある石柱         境内の隅に祀られている浅元宮の石祠  
四方に文字が刻んであるが、内容までは分からず
        
 その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
 正保3年(1646)、105歳で富士山中の人穴にて死去したとされる。
        
                社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」Wikipedia」等

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