古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大我井神社

 熊谷市妻沼(めぬま)埼玉県北端、元大里郡の町で、熊谷市の北に接し、利根川南岸の低地を占める。かつて利根川の氾濫の多かった地域で、自然堤防や後背湿地が交錯し、水田と畑が相半ばしている。中心集落の妻沼は、江戸時代には治承3(1179)年に斉藤実盛が守本尊を祀つたことに始まる歓喜院の門前町として、また利根川の渡船場、河岸場として栄えたという。

 この「めぬま」は、中世に利根川の氾濫によって大きな二つの沼ができ、女体様を祀る沼を女沼と呼び、近世になってこれを目沼となり、妻沼となったことによるとされている。


所在地   埼玉県熊谷市妻沼1480‐1
社  格   旧村社 延喜式内社白髭神社 武蔵国 幡羅郡鎮座
祭  神   伊邪那岐命、伊邪那美命
        (配祀) 大己貴命
        (合祀) 宇迦之御魂神/倉稲魂命、品陀和氣命/誉田別命、
             天照大神、速玉之男命
                  天穂日命/天菩日命、石凝姥命/鏡作神、菅原道真
由  緒   景行天皇40年創建(伝承)
       治承3年(1179)聖天社
       建久8年(1197)歓喜院を開設
       慶長9年(1604)社殿造営(聖天宮)
       明治2年大我井神社造営
       明治6年3月村社、同40年10月神饌幣帛料供進指定

例  祭   4月17日 例祭

地図リンク
 大我井神社は国道407号線を東に入った妻沼聖天山の東、妻沼小学校のすぐ南に鎮座する。専用の駐車場はなく、社務所近くの若干のスペースに駐車するか、近くにある妻沼聖天院の駐車場に止めて歩くかなのだが、社務所近くの若干のスペースに停める事にした。
  
 参道は思っていたよりは広く開放的だ。また参道の左側には石が祀られている。何の石なのかはわからないが、神が宿るとされる磐座(いわくら)かもしれない。 
磐座 
 
巨岩に対する基層信仰の一種である。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火に対 する信仰である三輪山や富士山などの神奈備(カムナビ)、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐に渡るものである。 
 
岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされるが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。日本書紀では磐座 と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
 
神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代と神威をもって祭りの中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 
現在では御神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。

 参道を北に歩くと正面に唐門が立つ。以前は、若宮八幡宮の正門だったが、若宮八幡宮が当社に合祀された後、当社境内に遷されたものという。
 
                                                                                       大我井神社唐門の由来
 
当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した
時に昭和三十年十月吉晨なり

                                                                                                                    境内案内板より
   
             拝  殿                 拝殿に掲げられた「大我井神社」の扁額
 
                                        神明造りの本殿
 拝殿、幣殿、本殿共に飾りの少ない重厚な造りで道路を挟んで隣接する聖天院の本堂(本殿?)とまさに対照的な社だ。

武州妻沼郷大我井神社
 大我井神社は遠く神皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
 古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
 なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています』
                                            境内案内板より
 
                                             富士塚
石段脇には角行霊神や身禄霊神、小御嶽大神、冨士浅間大神などが並び、塚頂にも冨士浅間大神。

                                                                                             明治時代以前までは、聖天宮と混祀しされ、神仏分離令によって、明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。同2年に社名を二柱神社から、古来以来の森の名にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営し、現在の形となった。また、西側聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。その聖天宮が、式内・白髪神社とみられているが、何故、最初から白髪神社と称さなかったのかはわからない。それとも称することができない理由があったのだろうか。

  

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