本郷椿社神社
摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。
京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天等、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたという。
藤岡市本郷地域に鎮座する椿社神社は、建久年間(1190~98年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まると由来碑には記している。
・所在地 群馬県藤岡市本郷1867
・ご祭神 豊受姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 春祭り 4月9日 秋祭り(神嘗祭)10月19日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2222895,139.0707343,16z?hl=ja&entry=ttu
小林風天神社から一旦北上し、国道254号線に合流後左折、その後高架橋手前を左斜め方向に進み、八高線の踏切を越えてすぐの「十石街道」に交わる十字路を左折し、暫く旧街道沿いを南方向に進行する。
この「十石街道」は、新町宿で中山峠から分かれ、藤岡宿で下仁田街道と交差し、鬼石・万場を経て神流川沿いを遡り、十石峠を越えて信州佐久地方に至る街道である。山中の難道ではあったが、信州・武州を結ぶ脇往還として重要な役割を持っていたという。この十石峠は寛永8年(1631)白井関所が設けられ中山道の脇住還として多くの人々に利用されてきた。当時、信州から日に十石(約1500㎏)の米が馬によって運ばれて来たことから十石峠と呼ばれるようになったという。
昔の街道であるので、道幅は狭いが、田畑風景の中にも民家も並ぶ通りを暫く進むが、2㎞程南下すると、進行方向左側は相変わらずの平坦な地形が続くが、右側は数メートル程度ではあるが高台(テラス)となっており、それが街道沿いに暫く続き、その高台が街道から離れる地点に本郷椿社神社は鎮座している。
本郷椿社神社参道入口の西側には「藤岡市防災公園」があり、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
街道にある社に通じる石段 石段を登り終えると社号標柱と鳥居が見える。
因みに「椿社神社」と書いて「つばきもりじんじゃ」と読む。
本郷椿社神社 正面鳥居 鬱蒼とした林の間に一筋に伸びる参道
本郷椿社神社が鎮座する藤岡市「美九里(みくり)」地区は、藤岡市の中心地区である「藤岡」地区の南西にあり、東西に長い地区である。この地区は明治22年の町村合併の際に、根岸・本郷・川除(かわよけ)・牛田(うした)・神田(じんだ)・矢場・保美(ほみ)・三本木(さんぼぎ)・高山の9村が合併してできた「美九里村」が基になっている。「美しい九つの里」が合併したことと、平安時代に置かれていた 高山御厨(たかやまのみくりや)の「みくり」の部分をとって現在の名称になったといわれている。
拝 殿
平安時代末には、武蔵国秩父出身の高山氏がこの地に居住していたが、東国を支配した源義朝は1131年に伊勢神宮に寄進してこの地に「高山御厨」(みくりや。荘園の一種)を成立させ、高山氏に管理を任せた。藤岡市本郷の「椿杜(つばきもり)神社」付近は「御厨の里」と呼ばれており、高山御厨の中心地だったと考えられている。その後、高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍し、子孫の高山重栄(しげひで)は1333年の新田義貞の鎌倉攻めに参陣して武功を立て、新田十六騎に数えられた。
藤岡では、昔から農家の副業として養蚕、製糸、織物が一貫して行われ、その絹は「藤岡絹」「日野絹」と呼ばれて、桐生の「仁田山絹」と並び称された。江戸時代には十石峠街道と信州姫街道が分岐する藤岡宿が成立して絹の集積地となって「十二斎市」(月に12回の「絹市」)が立ち、諸国の呉服問屋が絹の買い付けなどを行う「絹宿」を出店して、上野国一の取引量を誇って賑わったという。
高山御厨を管理した高山氏の子孫で、1830年に藤岡市高山に生まれた高山長五郎は、先祖伝来の屋敷を壊して蚕室を建てて研究を行い、明治16年に、通風を重視した田島弥平の「清涼育」と温湿度管理を調和させた「清温育」という飼育方法を確立した。
椿社神社は建久年間(1190~98年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるという。その後、天正3年(1575年)高山吉重が再興したとされる。元は隣村にあたる神田(じんだ)に鎮座していたが、現在地へ遷座する際に椿社神社と改めている。
神楽殿 神楽殿の近くに展示されているある瓦等
境内に設置されている「椿社神社」案内板
由緒
椿杜神社は、豊受姫命を主祭神として、本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田の鎮守として祭っています。豊受姫命は稲や穀物の神で、本社は伊勢の豊受大神宮にあります。今から約九百年前、平安時代の天仁元年(1108)秋に浅間山が大爆発を起こして大量の火山灰を降らせ、上野国内の田畑が全滅状態になる大被害をうけました。この災害から復興するため緑野郡高山郷の東にあたるこの地方は、神の加護も願って天承元年(1131)伊勢の国の伊勢神宮(皇大神宮 内宮、豊受大神宮 外宮)の神領となって、高山御厨と呼ばれました。御厨というのは、伊勢神宮を祭る為の食料や布などを用意する御料地(荘園の一種)のことで、国税などは免除されます。上野国内には九ヶ所ほどできましたが、高山御厨は最も早く、最も広い二百八十町歩もの水田があり、毎年四丈布の白布十反と雑用料として十反をそれぞれ二宮に納めていました。そのため各地に伊勢神宮の分霊を祭る神明宮の社が建てられ、「神明様、大神様」と呼ばれて、その土地の祭場になり(供物を収納する倉庫にもなり)ました。高山御厨は秩父氏系の高山、小林両氏が地頭職を分割して支配に当り、鎌倉時代には高山庄(荘園)に発展して緑野郡の平坦地の大部分が含まれるようになりました。両氏共鎌倉幕府に仕える御家人となって活躍し、鎌倉街道も整備されました。戦国時代の天正三年(1575)に、高山遠江守吉重が神田字神明に鎮座する豊受大神宮の社を再興し、光明寺に守らせ、高山氏は永く神社の鍵領かりをしていました。江戸時代に東方の本郷字大神裏(現在地)に移転して、椿杜神社と名称を改めました。明治二十二年(1889)に、近在の九つの里が合併した時、御厨の事故に因んで美九里村の名が付けられました。明治四十二年(1909)には積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る村社となって、現在の形が整えられました。神社の建物は本殿(神明造り・板倉様式・中に正殿)、幣殿(相の間・向拝)、拝殿が続き西側に合祀社、北側に末社石宮、南東に社務所・手水舎、南西に神楽殿、南参道に神明鳥居・石灯籠・石段、北参道にのぼり旗台などが配置されています。境内はツバキ、カシ、スギ、ヒノキ、ウメ等が植林され、北に稚蚕飼育所の建物があります。祭礼行事は、春祭りの四月には豊作祈願、秋祭りの十月(神嘗祭)夜は土器奉置式(モリコボシ)の神事が行われ、神穀を七十五膳の土器に盛って神前に供えます。伝説「神明縁起」では、鎌倉時代の建久年間(1190~1198)に文覚上人が伊勢神宮を勧請されたと伝えています。
「椿社神社の由来」碑から引用
本 殿
拝殿の左側には境内社群が並んで鎮座されている。
明治42年(1909年)に椿社神社に合祀された本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田等各地の神社が保存されている。合祀された神社は「椿社神社の由来」碑文によると「積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る」と記載されている。
社殿の奥に鎮座する境内社・石祠、石碑群(写真左・右)
参考資料「藤岡市役所 企画部 地域づくり課 文化国際係HP」「一般社団法人群馬県測量設計業
協会HP 上州の街道」「自衛隊群馬地方協力本部 本部長の群馬紀行」「Wikipedia」等