古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本郷土師神社

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時に、野見宿禰(のみのすくね)が出雲から300人余りの土師部(はじべ)を呼び、土で人馬やいろいろな器物を作り殉死を防いだことが記載されています。これが埴輪起源説と伝えられています。現在、「野見」や「土師」と呼ばれる地域には埴輪を焼いた窯が多数確認されています。10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されています。おそらく野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座する地域が土師郷と推定されます。祭神は野見宿禰(のみのすくね)で、上野国神名帳に正五位上土師大明神とあります。
 境内には市指定の土師の辻
(相撲壇)や歌碑「土師の杜」等があり、参道の脇には欅や杉の大木がそびえています。春祭りに太々神楽、秋祭りに獅子舞が奉納されます。また、平成13年に花馬、平成14年に流鏑馬が復活しました。
 *藤岡市公式HPより引用
        
               
・所在地 群馬県藤岡市本郷164
               
・ご祭神 野見宿禰
               
・社 格 旧郷社
               
・例 祭 秋祭り 10月第3日曜日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.229473,139.0754979,16z?hl=ja&entry=ttu

 本郷椿社神社から北方向に十石街道沿いを1.3㎞程進むと本郷土師神社に到着できる。地図を確認すると、小林風天神社と本郷椿社神社との丁度中間に位置するようである。社の東には、埼玉県との県境の神流川が流れていて、肥土廣野大神社の西側、直線距離にして1㎞程しか離れていない。この肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという経緯がある。肥土廣野大神社のご祭神は野見宿禰の先祖と云われている天穂日命で、本郷土師神社と文化圏を共有する社と言えそうであり、古代の土師部の集団である出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考えられている。
 というのも10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されている。因みにここでは「波爾之(はにし)」と註していて、嘗て「土師」は「波爾之」とも呼ばれていた。考察するに、おそらく野見宿禰をご祭神とする土師神社が鎮座する地域の多くは土師郷と推定されているのであろう。
        
               十石街道沿いにある朱の両部鳥居
 この社は「土師」と書いているので、「はじ」または「はに」と読むとばかり思っていたが、当社は「どし」と読むそうだ。古代の外来語起源の語であるかもしれない。地形や川の流れとの相対的位置関係等から見て,土師神社お鎮座地一帯には,古代においては,埴輪窯や関連施設等が存在した可能性が高い。土師神社の北東約150mのところには,本郷埴輪窯址の遺跡がある。
        
                                  長く続く参道
 100m程は有りそうな砂の参道。馬場になっているようで、流鏑馬などの神事が行われるらしい。
        
      参道を進むと右手に「土師の辻(相撲辻)」と呼ばれる相撲の土俵がある。

 土師の辻 
 所在地 藤岡市本郷一六四  
 所有者 土師神社
相撲辻とは、屋外で行った相撲の土俵とその場所を意味している。土檀(土俵)は伏せたすり鉢状で、高さ一六〇センチ、上円部径四九五センチ、基底部一三〇〇センチ、傾斜二二度、斜長四五〇センチを測る。
「日本三辻の一」と称される。他の二辻は摂津国(大阪)住吉神社と能登国(石川)
羽咋神社である。
明治以降は使用されていないが、それ以前は出世力士が披露相撲を行うのが例で勧進相撲が奉納されたが、幕内力士でなければ相撲檀に上がれなかった。
                                      案内板より引用
 
   参道を進むと正面に割拝殿があり。         割拝殿内部(天井部撮影)
        
                               参道左手にある神楽殿
 10月に行われる土師神社の秋祭りでは、地元では有名な伝統芸能が披露されている。古くから執り行われていた「獅子舞、花馬、流鏑馬」の伝統芸能で、一時期は継ぐ者がおらず、長らく中止となっていたが、それを平成13年ごろに復活させ、現在まで大切に守り継いでいるという。
        
                                        拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額         拝殿手前左側には「相撲額」も設置
  「正五位上土師明神」と記されている。
 相撲額
 所在地 藤岡市本郷下郷一六四
 所有者 土師神社
 土師神社祭神野見宿禰は相撲の神様と仰がれていた。
 この境内にある相撲辻は日本三辻の一つと称され、古来出世力士はこの辻で披露相撲を行った。又勧進相撲も行われたがその折、祭神にお礼と相撲の上達を祈願して相撲額を奉納された。
 この相撲額はこれらを証するもので、文化史の上からも貴重である。
                                      案内板より引用
       
                   社殿の奥に聳え立つご神木(写真左・右)
         
                     本 殿

 土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族で、天穂日命の後裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」と土師臣姓を賜ったと言われている。
 この天穂日命は天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱であり、天孫の父である天忍穂耳尊とは兄弟である。『古事記』『日本書紀』では、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻らなかったという。一方、出雲の豪族である出雲国造が朝廷に参内して披露する『出雲国造神賀詞』の中では、きちんと任務を果たし、子の天夷鳥命らを天降らせたりして、大国主神に国を譲らせるのに功があったことになっている。また『日本書紀』でも一書(別伝)では、国譲りののちのこととして、大国主神を祭る神として指名されたりしている。
 天穂日命は天津神の中でも毛並の良い直系統に当たる神でありながら、上記のような二面性が生じている原因について確固たる説はないが、その背景となる状況を推測するならば、おそらくこの神は、元来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、記紀神話ができ上がっていく過程で出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し、膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになった可能性も否定できない。

             境内に祀られている石祠群(写真左・右)
       
                      社殿北側にも朱の鳥居が設置されている。


*本郷土師神社の北方150m程、十石街道沿いに「本郷埴輪窯址」がある。
       
 本郷埴輪窯址  国指定史跡
 指定日  昭和191113
 所在地  藤岡市本郷
 県内の埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られています。藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点があります。このうち本郷埴輪窯については、明治39(1906)に柴田常恵氏により発見されました。そのあとの発掘調査により、5世紀後半から6世紀末まで操業していたことが確認されています。
 この窯址は昭和1819(19431944)に発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査されました。このうち、もっとも依存状態が良かった1基が覆屋で保護され、見学することができます。
 窯の構造は全長約10メートル、幅1.8メートルの大型の登り窯で、窯の中から多くの埴輪が出土しています。
                                   
藤岡市公式HPより引用

なお文化庁はこの窯跡について、次のように解説している。

「丘陵の東南面傾斜地に營まれたるものにして二箇所ありて孰れも登窯の形式を示せり一は前部と後部との二分に分たれ前部は喇叭口状に擴がれり、後部は約30度の傾斜をなし長さ約135寸幅約4尺を有し略々圓筒状をなせる如く側壁及底床は堅緻なる粘土を以て構成せられたり、前部は長さ約18尺幅約6尺を有し約10度の傾斜をなし後部に近き区域は焚口部をなせるものと認められ埴輪馬を初め各種の形象埴輪破片等散乱せり、一は其の北方約13尺の位置に位し略々同様なる形式を示し後部の長さ約16尺幅約5尺あり前部の区域より埴輪圓筒破片、埴輪馬破片、埴輪武器破片等出土せり。 我国に於ける上代埴輪窯の構造を示すものとして価値あるものとす。」
                          「文化庁 文化遺産オンライン」より引用



参考資料「文化庁 文化遺産オンライン」藤岡市公式HP」「日本歴史地名大系」
    Wikipedia」等

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