下新田大物忌神社
鳥海山は古代のヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。鳥海山は火山であり、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた。
更に大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。
鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている。
手長足長の悪事を見かね霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされている。
・所在地 埼玉県羽生市下新田1314
・ご祭神 大物忌神
・社 格 旧上新郷新田下新田鎮守
・例祭等 元旦祭 春祭り 4月15日 本祭り 7月15日
秋祭り 10月15日
国道125号線行田バイパスを東行し、「下新郷(西)」交差点を右折すると下新郷天神社に到着するのだが、その手前の「下須戸(北)」交差点を左折し北上すると、周囲一帯田園風景が広がる風景の中にポツンと下新田大物忌神社が見えてくる。
県道沿いに鎮座する下新田大物忌神社
社の東側を南北に縦断する道路は埼玉県道364号上新郷埼玉線で、平日でもけっこう交通量は多い。社の周囲には駐車スペースはなく、とはいえ県道に路駐はできない。今回は北側に流れている用水路の脇にある舗装されていない路地に駐車させ、急いで参拝を開始した。
下新田大物忌神社正面
『日本歴史地名大系』 「下新田村」の解説
上新郷村に続く会の川右岸の村。忍おし領に所属(風土記稿)。もと同村のうちにあったが分村し、「寛文朱印留」に村名がみえる。元禄郷帳では上新郷之新田下新田と記されるが、持添新田ではない。同帳によると高六九〇石余。忍藩領で幕末まで変化なし。同藩の谷郷組。元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人五九人、馬二八、用水は北河原きたがわら堰(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には田方三五町三反余・畑方二七町六反余、本人五六(忍領石高社寺人別帳)。
「羽黒神社」と表記されている社号額がある鳥居
神仏分離後に現在の名称に神名は改称されたが、本来の名は「湯殿權現社」で羽黒系の社。
地域内の氏子の方々は今でも「権現さん」「たんなか権現」「湯殿山」と呼び親しまれているという。
社殿はなく、石祠にて祀られている本殿
『新編武蔵風土記稿 上新郷新田下新田』
下新田は古上新鄕の内なりしを、元祿九年阿部豊後守檢地のときより裂て一村とせり、故に今も上新鄕の新田と唱へ、枝鄕の如き村なれば、庄名用水領主の遷替等、すべて本村に同じ、
湯殿權現社 村の鎭守なり、村持、
大物忌神社(たんなかごんげん) 羽生市下新田一三一四(下新田字野分)
埼玉の穀倉地帯下新田は元禄九年に上新郷から分村し、古くは上新郷の新田、新宿新田などと呼ばれていた。当社の鎮座する地は野分と呼ばれ、行田市との境にある。
創始は明らかではないが、口碑に「昔この地には忍城の出城があり、古利根川を境に羽生の殿様とよく戦をしたために忍の本城に恨みを持って死んだ者が多く出て、これらの人々を祀ったのが当社である」という。また「この社を大事にしないと、偉くなってから間が悪くなる」ともいわれている。
本殿は石祠で、「大物忌大神」の神名が刻まれた石版がはめられている。この石板の裏には「往古湯殿山大権現之神号□□置候処明治二己巳年御一新付天朝之御沙汰□相成□物□□□□□」とある。更に石板に隠された石祠の正面には、本来の社号である「湯殿大権現」が刻まれている。また鳥居には天保七年の「羽黒神社」の社号額が掛かる。
以上のことから当社は江戸期において羽黒修験が何らかの形で関与し祀っていたが、神仏分離により出羽国一の宮の社号大物忌神社への改称を余儀無くされたものと考えられ、当時の氏子たちの苦心がしのばれる。
「埼玉県の神社」より引用
本殿の左側にある欠けた石碑の奥に 本殿の右側には白山神社の石碑あり
祀られている浅間神社
参道右側に設置されている記念碑
記念碑の奥に祀られている石祠は稲荷神社
この記念碑には「獅子頭太鼓装束奉納」と刻まれた一文がある。これは、当社の本祭りで下新郷の真言宗大光院が管理している「獅子舞」関連の一文であろうか。『埼玉の神社』によれば、この獅子は、大正末期までは、舞が数庭伝えられていたが、今は年番によって獅子が各家を回り、悪病除けのお祓いを行うことだけとなっているという。
参考資料「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
