下村君鷲宮神社
羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の
この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。
○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里 道興
所在地 埼玉県羽生市下村君2227
主祭神 天穂日命
社挌 例祭 不明
鷲宮神社は久喜市鷲宮にある総本社を中心に周辺には数多くの同名の支社が存在する。羽生市下村君に鎮座する鷲宮神社も数多く存在する支社の一つである。永明寺古墳の西側で距離的にも非常に近い。また公民館が同じ敷地内にあり駐車場は非常に広い。
社殿は南側でその正面には鳥居があるのだが、その一方東側にも朱を基調とした明神鳥居があり、その正面には永明寺古墳がある配置となっている。
東側にある明神鳥居
左側が公民館で、正面右側に神社がある。
拝殿 古墳の上に建てられているようだ。
境内からは円筒埴輪や形象埴輪が出土している。
本殿覆屋 浅間社 この石祠も古墳上に鎮座しているのだろうか。
御手洗の池の中に弁天社が祀られている。 境内の弁天社のそばには藤の古木があり、
由来書が掲げてあった
鷲宮神社と古藤の由来
鷲宮神社の御手洗の池に、市杵島姫命を祭る弁天社があります。このお宮は、七福神の一人弁才天と付会され、人々から厚く崇拝されてきました。池のほとりにある古藤は、弁天社の創建のころ植えたと伝えられ、明治十七年(1884)の記録に、数千年を経たもので風景すこぶる美観とあります。
鷲宮神社(横沼神社を合社)は、祭神を天穂日命といい、古墳の上に建てられました。2142坪の境内地には、四個(他に一個出土している)の礎石があり、社殿がたてられていたことを物語っています。また、付近から鎌倉時代の屋根瓦の破片が出土しており、社殿の修理か造営が行われたものと思われます。横沼神社は、彦狭島王の子御室別王の姫を祭ったもので、樋遺川村の御室神社へ「お帰り」という里帰りの神事が、明治の末期まで行われてきました。由緒の深い神社です。ちなみに、村君の地名が文献に現れるのは、応永年間(1394~1427)で、文明十八年(1486)京都聖護院二十九代の住持を務めた道興准向が村君の里を訪れ、「たか世にか 浮れそめけん 朽はてぬ 其名もつらき むら君の里」とよんでおります。荘厳な鷲宮神社や永明寺を拝し、古墳を訪ね、栄えていた村君の里をしのんで歌われたものです。現在、藤は羽生市の花として市民に親しまれています。
案内板より引用
この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物だそうだ。
そしてこの村君の地を訪れた時に詠んだ和歌が、冒頭に載せた歌である。
社殿の右側には明治四年村君全域より合祀された、稲荷神社、熊野神社、八幡神社、天神社、八雲神社が合殿で祀られている。