大蔵神社
木曽義仲の父は、源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢で、母は小枝御前。義賢は嵐山町の大蔵に館を構えて住み、そのころ義仲は駒王丸(こまおうまる)という幼名で呼ばれていた。
源義賢は1153(仁平3年)年頃、武蔵国の名族秩父重隆の養君として上野国多胡から武蔵国大蔵へと迎え入れられ、大蔵館を構えたと言われており、当地を拠点として武威を高めたが、1155(久寿2)年、嵐山町大蔵の地で起こった「大蔵の戦い」で非業の最期をとげることになる。義賢の兄義朝の長男である悪源太義平は、この地方に勢力を伸ばすために大蔵館を攻め、義賢とその一族の大部分が討ち死にした。
この大蔵の地は、都幾川をのぞむ台地上に位置し、荒川支流の都幾川と鎌倉街道が交差する要衝の地でもある。大蔵神社の森は周囲よりも高くなっており、今でも高い土塁に取り囲まれている。義賢の屋敷はこのあたりにあったといわれ、義賢がこの地を本拠地にして勢力をのばそうとした理由が何となく頷けた、そんな参拝となった。
所在地 埼玉県比企郡嵐山町大蔵523
御祭神 大山昨命
社 挌 旧村社
例 祭 不明
大蔵神社は国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点(交差点の名称はなし)を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進み(埼玉県道172号大野東松山線)、都幾川を越え約1km位進むと右側にこんもりとした大蔵神社の社叢が見える。残念ながら駐車場または駐車スペースはないようなので県道沿いに路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
県道172号大野東松山線側から正面参道を撮影
額に「大蔵神社」と書かれた朱色の両部鳥居
鳥居の手前左側にあった「大蔵館跡」の案内板
大蔵館跡
大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西一七○メートル・南北二○○メートル余りであったと思われる。
館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。
現存遺構としては、土塁・空堀などがありことに東面一○○メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。
源義賢は、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(一、一五五年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。
義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。
案内板より引用
拝 殿
大蔵神社の手前左側には稲荷神社が鎮座し(写真左)、その奥には八坂神社の扁額が掲げてある一見神興庫兼倉庫風の社もある。また稲荷神社の側面上部には「大蔵八坂神社御神輿製作の由来」と書かれた額が飾られていた(同右)。
大蔵八坂神社御神輿製作の由来
大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録によると、今から一六四年前の天保七年(一八三六年)六月に氏子の皆さんから御寄付をいただき造られたと考える。<その後明治八年(一八七五年)にも氏子から御寄付をいただいた記録がある>
当時を日本史で見ると天明三年(一七八三年)七月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異により天明七年までを天明の大飢饉。天保四年から十年までを天保の大飢饉といわれた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。まさに大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また御獅子二体は明治二十年に造られた記録がある。
以来、毎年御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われてきた。時代の変化にともない昭和四十年代には、一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和五十二年に設立され本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年には青少年の健全育成を願って、氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。
しかし現在の御神輿は老朽化が著しく平成元年から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。
ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム二○○○年を記念して、御神輿を新装しようということになり平成十一年の区民総会にはかり、二十八名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額二千円十八ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねてきたが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。なお今回の御神輿の製作にあたり大行院大澤霊明氏には、御助言と過分なる御芳志をいただき区民一同感謝申しあげるものである。
異常大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し後世に伝えるものである。
平成十二年(二○○○年)七月吉日 大蔵神輿製作実行委員会
同掲示板より引用
稲荷神社から東側正面にある鳥居。額には「大蔵稲荷大明神」と書かれている。
稲荷神社に並ぶように配置された境内社。写真左側は不明。同右は仙元大日神の石碑。この石碑の両側にある石碑らしきものが何となく気になる。
大蔵神社参道付近から撮影
この大蔵神社には県道沿いや境内西側の「大蔵館跡」の看板付近に土塁や空堀の遺構が見られ、土塁の高さは3m以上あろうかというほど立派なものだ。但しこの土塁等は後世の改築とも考えられ、発掘調査の結果によると現存する土塁は室町時代から戦国時代にかけてのものとされている。
大蔵地区近辺には源氏3代(義賢、義仲、義高)ゆかりの鎌形八幡神社や笛吹峠、鎌倉街道など、鎌倉武士の息吹きを伝える旧跡が数多く点在している。嵐山という雅な地名と相まって、埼玉県にもこれほど文化遺産の多い地域が存在することが正直嬉しかった。