古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

越生神社

 越生町(おごせまち)は、埼玉県の西部にあって、入間郡の北西部、秩父山地の東麓に位置し、東は比企郡鳩山町、南東から南は毛呂山町、西は飯能市、北は比企郡ときがわ町に接しており、東西に9.5㎞、南北に7.9km、総面積40.39km2を有していて、人口 110292020。入間川支流越辺川の谷口集落として発展した町で、中心部は同川の河岸段丘上にある。
 当地は古くから仏教文化が栄え、如意(ねおい)観音寺の如意輪観音像、堂山最勝(どうやまさいしよう)寺の釈迦如来像、越生法恩寺の大日如来像など平安期の仏像が残り、中世は越生郷の中心地で、同郷を領した越生氏の本貫地でもある。関東三大梅林の
1つである越生梅林を有している。
『新編武蔵風土記稿 今市村』
「當村は越生郷十六村の本村にして、古くより市場となせし所なれば、越生の今市とも唱へ、又越生とのみも呼べり、現に寛永十年毛呂郷前久保村八幡へ、材木を賜りし時の記録に、市川孫左衛門御代官所越生村と書したれば、此頃はかく唱へしこと知らる、今市と改めし年代は詳ならざれど、正保の改めに高室喜三郎が御代官所今市町と出たれば、此以前より唱へしこと知らる、元禄年中の郷帳には町を改めて、今の如く今市村と記せり(中略)當所は相州及び八王子邊より上州へ通ふ往來の宿驛なり」
 中心地区の越生は越辺川の谷口集落で,鎌倉時代から既に市が開かれていたことから、嘗ては「今市村」との村名であったという。「今市村」は現越生町の南東部、大高取山の東麓の山裾で、越辺川右岸台地に立地し、古くから上野国と相模国を結ぶ街道上の要衝であった
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町越生1015
             
・ご祭神 誉田別命 大山咋命 素盞嗚命 倉稲魂命
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 越生まつり/神輿・山車 7月下旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9625121,139.2959214,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線越生駅西口から西側に南北に通る埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、最初の丁字路を左折し250m程進み、突き当たりから正面に見える細い路地を道なりに進むと、越生神社が左手に見えてくる。
 社の創建年代は不詳としながらも、元来は武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として琴平社を創建したことに始まるという。その後、明治42年(1909年)に、近在の小社として旧越生村村社の八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、他各地に点在していた稲荷社を合祀し、現在の形となったとの事だ。
        
                細い道沿いに建つ社号標柱
                 社号標の左手には庚申塔を始めとする石碑等が建っている。
 
    社号標柱付近にある一の鳥居      一の鳥居から参道を進むと二の鳥居が見える。
 越生氏は武蔵七党・児玉党の一派にして、有道姓、児玉惟行より出たと称し、鎌倉時代の始より戦国の頃まで存続した。その本拠地は今の越生神社(大字越生)の付近という。
『武蔵七党系図』
「有大夫弘行―河内権守家行、弟資行(入西)―有行(越生三郎、新大夫)―右馬允有弘―左馬允有高―藤内左衛門尉太郎有信―新馬允信高(弟三郎頼氏)―太郎左衛門尉弥太郎季信(弟二郎高綱)、有信の弟二郎兵衛尉有直―太郎長経―弥太郎経高、有直の弟民部丞有綱―太郎有茂(弟五郎有信)―又太郎信茂―弥太郎。右馬允有弘の弟別当二郎有頼―中務丞三郎頼季―右近将監頼員―右近将監頼清(弟四郎時景)、頼員の弟二郎左衛門尉頼高―太郎景高(弟二郎季高)、頼季の弟左馬允頼高―太郎親景―小太郎為長―弥太郎幸綱、親景の弟二郎光景―二郎太郎時景、左馬允頼高の弟刑部丞時光―時仲―五郎信員。別当二郎有頼の弟四郎有平―岡崎四郎二郎有基―有氏―又太郎経氏」
        
             木々に囲まれた厳かな雰囲気のある境内
 越生(おごせ)氏の祖としては、入西資行の四男である入西有行が、越生に居館を構えて越生新太夫を名乗ったとされている。
 因みに入西資行の長男・入西行成は浅羽氏、次男・入西遠弘は小代氏の祖となった。
 その後、越生館に入った越生有行の子には、越生有弘、越生有頼、越生有平の三兄弟がいて、越生有弘は越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子・越生有年は鳴瀬氏(成瀬氏)とにり、越生有光は黒岩氏を、越生有基は岡崎氏へと分家したという。
        
       社は高取山麓の緩やかな斜面上に鎮座していて、石段上にある拝殿。
             この背後に越生氏の詰めの城とされる高取城跡のある高取山がある。
 明治421909、越生氏の氏神といわれる八幡社を中心に、越生市街地に点在していた神社を統合して高取山麓に造営された。社自体は決して古くはないが、越生氏が高取山に居館を構えた際の鎮守社として平安時代末期ごろに創建されたというその歴史が醸し出す雰囲気は十分に感じ取ることができた。
        
                    拝 殿
        
               境内に設置されている案内板
 越生神社と高取山城跡  越生町越生
 越生神社は明治四十二年(一九0九)に、神社合祀令を受けて、琴平神社に、旧越生村村社八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、ほか市街地に点在していた稲荷社を合祀して造営された神社である。
 七月下旬に催される「越生まつり」は、牛頭天王を祀る八坂神社の祭典、祇園祭(天王様)の系譜を引いている。神社を出立した神輿が町内を渡御し、夕刻から曳行される六台の山車の上では、華やかな江戸天下祭の名残を今に伝えている。
 越生神社の奥宮がある高取山には中世の山城跡がある。標高約百七十mの頂上が平らに削られ、空堀と土塁で画された郭(曲輪)が数段残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。越生四郎左衛門は『太平記』に登場する、南朝の北畠顕家を討ち取った武将である。越生神社下方の平坦地付近と推定されている越生氏館背後の高取山に築かれた「物見砦」や「詰城」であった可能性がある。
 一方、現存する遺構は室町期後半から戦国期のものであり、太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。
 令和二年三月三十一日 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
   拝殿手前で左側に鎮座する境内社・     拝殿の右側に鎮座する境内社・日吉神社
       稲荷神社
と石祠群

   拝殿手前にある越生神社神輿(三基)        越生神社神輿の案内板
 越生町指定文化財(民俗文化財・有形)
 越生神社神輿(三基) 平成二十三年九月二十八日指定
 越生神社神輿
 越生神社は大字越生の八幡神社、八坂神社、日吉神社、大字黒岩の八坂神社ほかの神社を当地の琴平神社に合祀して、明治四十二年(一九〇九)に造営された神社である。
 毎年七月の越生まつり(天王様)に渡御する三基の神輿のうち、本宮は越生の八坂神社、中宮(置宮)は黒岩の八坂神社で維持されてきたと伝えられている。本宮の台輪には八坂神社(祇園社)の社紋「祇園守紋」の餝金具が付けられている。若宮には八幡神社の社紋「三巴紋」が飾られており、元来、越生の八幡神社の神輿があったとことが推測される。中宮には両方の紋が配されている。
 制作年や製作者は不明であるが、合祀の前年に撮影された写真に二基の神輿が写っていることから、少なくとも百年以上の星霜を経ていると思われる。
令和四年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用


        
                     一の鳥居の右手には、越生子ノ権現が祀られている。
 
    
越生子ノ権現の案内板が設置されている。     足腰の神様である事からか、
                           草鞋が供えられていた。
 越生子ノ権現
 飯能市の子ノ権現(天龍寺)は、足腰の病に験のある神仏として各地に勧請されている。越生に子ノ権現が祀られたのは古く、鎌倉時代以前と推測される。『法恩寺年譜』文治四年(一一八八)の条、越生一族・倉田孫四郎の妻・妙泉尼に関わる記事に「子権現」という言葉が出てくる。また大字上野との境には「子の神」という地名が残っている。
この地に社が建立された年代は不明であるが、文化四年(一八〇四)に、越生村の新井源四郎が再建したという記録が残る。
「ひじりだいごんげん」として越生の人々の信仰を受けていたが、越生神社の創建後はその境内に取り込まれ、その後には日吉神社に合祀され、社を失った。しかし、地元の熱意により、平成二十七年十月十八日、遷座祭を行い、旧観を取り戻した。
 平成二十八年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用




参考資料「
武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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