上会下稲荷神社
天正年間(1573〜1592)に創建された。信濃国筑摩郡岡田(現・長野県松本市)出身の岡田義忠の子の義徳が、家臣とともに当地を開拓したのが、当社の起源であるという。
1871年(明治4年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1909年(明治42年)の神社合祀により、周辺の8社(摂末社含む)が合祀された。合祀された旧神社の境内は更地にして田畑として貸し付けられたが、戦後の農地改革により没収されてしまったとの事だ。
・所在地 埼玉県鴻巣市上会下420-1
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧上会下村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 3月7日 天王祭 7月15日 献灯祭 9月9日
例祭 10月9日 秋祭り 11月26日
境天神社から埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線を北行し、見沼代用水に架かる「境橋」を越え、100m先の丁字路を右折し東行する。民家が点在する道幅の狭い道路を進むうちに、田畑が大部分を占める農地が広がっていき、その中に綺麗に整備された「上会下公園」が、その南東方向に上会下稲荷神社が見えてくる。
田畑風景が一帯に広がる中にポツンと鎮座する静かな社。社殿は南向きで、見沼代用水に対して向けられているような配置。境内東側に駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
上会下稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「上会下(かみえげ)村」の解説
現川里村東端にあり、集落は見沼代用水(星川)左岸の自然堤防上に立地する。西は同用水を隔てて新井・境の二村、北・東・南はそれぞれ上崎村・中ノ目村・上種足村(現騎西町)。境村西方に屈巣(くす)沼を開拓した広い飛地がある。文禄二年(一五九三)岡田惣右衛門が荒地を開墾したのが村の起りという(郡村誌)。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二八四石余・畑高二〇〇石余、川越藩領。ほかに雲祥寺領三〇石がある。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高五四四石余(田方三八町八反余・畑方二三町五反余)、新田高二一八石余(田方一五町五反余・畑方九町四反余)。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上会下村』
古會下領なりし故この村名を得しと土人いへり按に中種足村龍昌寺の傳へに、村名雲祥寺を上會下と唱へし由を云へば、其寺の領なりしことしらる、
稻荷社 村の鎮守なり 村民持、
雲祥寺 禪宗曹洞派、下野國安蘇郡戸奈良村種德寺末、龍嶋山と號す、元は臨濟派にて、鐮倉建長寺の末なりしを、文龜二年當派となりしと云、中種足村龍昌寺の傳へに據れば當寺元上會下と唱へし事しらる、猶村名及び龍昌寺の條、合せ見るべし、開山樸巖良瑣永正十七年七月廿六日寂せり、開基は根古屋の城主小田大炊頭なり、此人天正八年卒す、法諡して氣窓正瑞居士と云、天正十九年寺領三十石を賜ひしに慶長年中燒失して、御朱印を合せて失ひしを大猷院殿の御代、時の御代官大河內金兵衞願ひ上て、再び御朱印を附られしとなり、本尊釋迦を安置す、寶物に明德五年の雲版あり、こは足立郡上加村東光寺のものとみゆれど、當寺に傳來せるゆえ、由はつまびらかならず、其圖前の如し、鐘樓 正德六年の鐘をかく、道了權現社 地藏堂
稲荷神社 川里村上会下四二〇(上会下字下中島)
地名の会下(えげ)は寺格の一つである院家(いんげ)が転じたもので、区内曹洞宗雲祥寺を上会下、末寺竜昌寺(騎西町中種足)を下会下と唱え、雲祥寺付近に上会下の名のみが残ったと伝えられている。
社記によれば、当社の創立は、信州岡田(長野県松本市郊外)の住人岡田総右衛門義忠の子の義徳が天正年中この地に隠棲し、家臣一六名共々土地を開き神社を祀ったことによるという。これが、時の流れにより村の戸数も増え、当初一六名で祀っていたものが代々の村民に崇敬されるようになったものと考えられる。
『風土記稿』には「稲荷社 村の鎮守なり、村民の持」と載せる。
享保四年一月二一日、京都の吉田家から宗源宣旨を受け、正一位稲荷大明神と号した。
明治四年に村社となり、同四二年には下中島の天神社、白幡の三峰社・厳島社、本村の八坂社・岡田神社・清浄伊奈利社、寺中の稲荷社及び当境内社榛名神社の計八社を合祀した。
合祀された社の跡地は、一時当社の名義となり、田畑として貸し付け、小作料を神社費に繰り入れていたが、昭和二一年農地改革の際、解放され、私有地となった。
主祭神は倉稲魂命で、合祀神は菅原道真公・伊弉諾命・伊弉冉命・市杵島姫命・素戔嗚命・彦田支命である。
「埼玉の神社」より引用
当社の氏子は、寺中・本村・中郷・白幡・上中島・下中島の住民である。そして、作神・村中安全の神として崇敬される稲荷社の本殿には、氏子崇敬者などから供えられた多数の白狐が納められているという。
岡田総右衛門が移住した天正年間頃は一六戸であったが、時が下り江戸時代の化政期になると五〇戸程の村となり、その後更に発展し、昭和58年では戸数も七〇戸程に増えた。嘗て星川の氾濫防止のため私市(騎西)城主が扣(ひかえ)土手と呼ばれる堤を村内に作ったため、村は新田と内郷とに二分されたかたちとなっている。
境内に祀られている境内社・八坂神社
「埼玉の神社」では、社の配置図が記されていて、祭器庫と八坂神社が別々にあるのだが、今回確認したところ、一社あるのみであった。もしかしたら、現在は祭器庫と八坂神社が一つに纏めて祀られているのかもしれない。
この八坂神社で行われる祭りは「天王祭」と呼ばれ、社の祭りの中で盛んに行われているという。この祭りでは、神輿が担がれる。祭り当日は午前中祭典を行い、夕刻から神幸となる。祭りの準備日(7月7日)にお仮屋を設けて飾っているのだが、当日このお仮屋から出発し、境橋・下崎境・上崎境・中ノ目境と各区境で揉み、辻固めをして回る。途中重立ちの家では酒等振る舞いを受け、そして東の空が明るくなるころ神社に戻るとの事だ。
八坂神社の奥に祀られている弁天社・氷川社 社殿の奥に祀られている稲荷大明神
社の境内の道を隔てた東側にポツンと祀られている天神社
社の一風景
嘗ては、旧暦8月23日ごろにも祭りが行われ、花火が有名であったようだ。大豆が終わり、麦まきまで畑の空いているとき、明治28年と記されている「花火名帳」と「花火諸費記帳」が保管されていて、神社近くの畑に趣向を凝らした仕掛け花火を披露し、近郷の人々も見物に来て大変賑わったそうだ。村内に病気などがはやると「稲荷様が花火を見たがっている」といい、臨時の花火大会を行い、厄除けしたというが、明治40年頃から火薬の取り締まりが厳しくなり、この祭りはやがてなくなってしまったとの事だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
