境天神社
・所在地 埼玉県鴻巣市境86
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧境村下分鎮守・旧村社
・例祭等 天王様 7月15日 八幡様灯籠 9月14日
新穀感謝祭 11月23日
旧川里村境地域に鎮座する社である。広田鷺栖神社から埼玉県道313号北根菖蒲線を東行し、1㎞程先にある丁字路を左折する。通称「川里中央通り」と呼ばれるこの道の東側には鴻巣市の花と音楽の館「花久の里」というNPO法人が運営している施設があり、花・物販の事業、食の事業、音楽・芸術の事業や年間のイベントを実施しており、季節別に彩られる庭園は自由に入ることができるなかなか洒落た場所だ。
この川里中央通りを北上すると、また丁字路となり、そこを右折する。見沼代用水(星川)右岸に沿った道路を南東方向に進み、「境」交差点を左折すると、用水に架かる境橋の手前に境天神社は鎮座している。
見沼代用水(星川)付近の様子。社は写真右手前に鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「境村」の解説
東は見沼代用水(星川)を隔てて上会下(かみえげ)村、集落は同用水右岸の自然堤防上に立地している。村域西方には同村の広い飛地がある。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二六七石余・畑高一三三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高二二七石余(田方一七町余・畑方七町六反余)。化政期には旗本林・藤堂二家の相給で(風土記稿)、幕末まで両家領として続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
境天神社正面
宝暦年間(1751〜64)に創建されたという。当地の福島家に居候していた釈白心庵主が亡くなるに際し、当地には鎮守の神社がないことを憂い、天神を祀るよう遺言したとも、当地を所領としていた旗本藤堂良由が天神を篤く信仰していたことから創建したともいわれている。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1910年(明治43年)の神社合祀により、周辺の9社が合祀されたという。
鳥居の右側に祀られている愛宕社・弁天社 鳥居の左側には、伊勢参宮記念碑や
庚申塔も二基ある。 庚申塔も建つ。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 埼玉郡騎西領境村』
八幡社 村内上分の鎭守なり、〇久伊豆社 〇神明社 〇稻荷社 以上四社、善勝寺持、
〇天神社 村内下分の鎮守なり、〇熊野社 〇天王社 〇辨天社 以上村持
善勝寺 禅宗臨済派、日出安村保寧寺末、東光山と號す。本尊釈迦。立像にて長三尺許、
弘法 の作と云。開山清庵祖銀文祿4年8月示寂。 觀音堂。 鐘楼、延享5年の鐘をかく
天神社 川里村境八六(境字台)
当社の鎮座する境地区は星川(見沼代用水) の右岸に位置する。古くは境村を二分して上分・下分と私称し、上分の鎮守は八幡社、下分の鎮守は天神社であった。
当社の創立は、社記に「当社は今古老の口碑に伝て日ふ宝暦年間福島家に釈白心庵主なる者あり該宅地内に勧請ありしが該庵主回向をなし本村に於て寂するに際し遺言して日く本村下分に鎮守なきを以て之を祭れと茲に於いて祭れり以て挙村民之を鎮守とし崇敬せり」とある。また『明細帳』に「素ヨリ当村鎮守ニシテ去ル宝暦年中旧地頭藤堂肥後守良由朝臣深ク信仰セラレケルヲ以テ社殿再建アリ、明治五年村社ニ申立済、明治四十三年二月二十三日同村大字同字同無格社熊野社字同無格社稲荷社字上手無格社神明社字同無格社厳島社字同無格社八坂社字台無格社厳島社字同無格社愛宕社字前無格社八幡社字同無格社久伊豆社ヲ合併ス」とある。
字前の八幡社は上分の鎮守であったために、合祀後は、覆屋内に天神社・八幡社の二社が並べて祀られ、それぞれ三五センチメートルの「天保十二辛己歳八月吉日之彩色口」と記す天神座像と二三センチメートルの八幡大明神像を安置する。また天神社の社殿前面には、随身像が置かれている。
「埼玉の神社」より引用
当社の行事に7月15日に行われる「天王様」があり、夕方から大人神輿が地域内を練る。神輿は拝殿から担ぎ出され、まず総代の家に寄ってから主要道路を練り、その後村境二カ所をでも練った。昭和28年頃までは上・下の両耕地にそれぞれ子供神輿があり、子供たちの自主性に任さられ練られていたという。氏子から配られる賽銭も上級生が中心となって各人に配布されていて、子供たちにとっては重要な人格形成の場ともなっていた。ところがこの様子を見た当地の教育者の一人が、教育上強く遺憾の意を表明したため即座に中止となり、神輿を取り壊してしまった。その後、神輿行事は復活されていないという。
境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鴻巣市観光協会HP」
「Wikipedia」等