新井稲荷神社
料理方法は、鮭(新巻鮭)の頭・大豆(節分に撒いた残り)・人参・その他の余り物を細切れにし、大根を目の粗い竹製の大根おろし器の「鬼おろし」で粗くすり下ろして酒粕と共に煮込んだ料理で、独特な味や香り、その外見から、好き嫌いが激しく分かれるそうだが、残念ながら筆者はこのような料理を一度も食したことがないので、料理の好みを判別することができない。
「しもつかれを三軒(七軒ともいう)食べ歩くと中気にならない」や「なるべく多くの家のしもつかれを食べると無病息災」など、しもつかれには様々な伝承が伝えられ、現在でも重箱に入れて隣近所でやりとりする風習がある地域もある。
鴻巣市新井地域では、二月初午に大正期まで各戸で「すみつかれ」を藁苞(わらづと)に入れて社頭に供えに来たという。因みに「初午」とは、2月の最初の午(うま)の日を指し、稲荷神社で豊作や商売繁盛、家内安全などを祈願するお祭りが行われる日でもある。稲荷様が如何に穀物や農業の神として信仰され、更に、一般の方々の日常生活にも深く関わっていたかを示す風習でもあろう。
・所在地 埼玉県鴻巣市新井226
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧新井村鎮守
・例祭等 春祭り 3月18日 天王様 7月27日 例祭 10月14日
秋祭り 11月28日
境天神社から一旦南下し、「境」交差点を右折し、北西方向に500m程進んだ場所に新井稲荷神社は鎮座する。地図を確認すると、道路を挟んで鴻巣市立共和小学校の向かい側に位置している。
新井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
境村の北西にあり、見沼代用水(星川)右岸の自然堤防上に位置する。北から西は広く関新田村に接し、同村内に飛地が散在する。弘安一〇年(一二八七)一月二〇日、陸奥国好島(よしま)庄(現福島県いわき市)の伊賀光隆が子の光清に譲与した所領のなかにみえる「荒居」(永仁元年一二月一七日「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)は当地のことと考えられる。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高一三八石余・畑高九八石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高一五三石余(田方一二町三反余・畑方三町八反余)。
当社は古くから新井の鎮守として厚く信仰されている。特に養蚕の盛んであった戦前までは、お稲荷様(おとがさま・陶製眷属像)が多数貸し出され、養蚕守護の神として信仰を集めた。当地の養蚕は、春蚕・秋蚕・晩秋蚕の年3回であり、ほぼ全戸が生業の中心としていたという。
拝殿覆屋
稲荷神社 川里村新井二四八(新井字本村)
当地は星川(見沼代用水)右岸に位置し、地内には奈良・平安期の集落遺跡がある。
当社は、口碑によると岡戸氏の先祖が山城国の伏見稲荷大社から御分霊を頂き当地に祀ったのが始まりであるとされ、岡戸本家は修験者の系統を引くという。更に、当社は同地区に祀る正源寺持ちの観音堂と同年代の建立であるという。また、正源寺は真言宗で山号を稲荷山と称し、開山は元亀元年と伝え、江戸期において当社の別当を務めていた。以上のことを勘案すると、当社の創立は元亀元年以降のことであると思われる。
本殿の造営は宝永五年で、棟木墨書に「宝永五戊子年北埼玉郡騎西領新井村住人岡戸氏行右衛門吉明奉寄進者也 天下泰平国土安全家内長久諸願成就之所七月廿八日千秋万才楽也 五月中〇七月下旬迠□之□則作者串作村山下長兵衛弟子儀兵衛八右衛門敬白」とある。
正徳四年に宗源宣旨を受け、正一位稲荷大明神と号している。
祭神は倉稲魂命で、内陣には三五㎝の茶枳尼天(だきにてん)像を安置している。また、境内社の白山大権現は明和八年に建立したものである。
「埼玉の神社」より引用
「新井稲荷神社の算額」の碑 境内社・白山大権現
鴻巣市指定有形文化財 新井稲荷神社の算額
江戸時代に発達した日本独自の数学を和算という。埼玉郡種足村(現加須市騎西)の開流の都築利治(1834~1908)を師とした田村金太郎(旧共和村新井)が難しい問題を解いた成果として奉納したもので、川里地域に残る唯一のものである。明治25年(1892)9月1日奉納されたものである。平成13年3月28日指定。
また、境内社・白山大権現は、地域の方々からは、歯痛を直す神であるといわれている。
新井稲荷神社遠景
当社の行事の一つに「天王様」があり、7月27日に行われる。この祭りでは、古くから行事の一切を子供たちの手に委ねられ、最上級生四名が親方となり運営したという。
まず、祭りに先立ち親方の指示で下級生が村の重立ちの家を回って歩き、神輿飾りの寄附をもらう。当日、子供が担ぐ神輿が氏子各家の庭先で練られ、各家から賽銭が上がり、全戸回り終えると、親方が賽銭を学年に応じた金額で銘々に分配する。行事の一切が終わると、親方は神輿の四方に下がる提灯をもらって役を引退する。
この行事は子供たちにとって子供社会の仕来りの中で、おのずから物事に対する秩序や道理を身につける場となっていたが、近年教育上の配慮を理由にPTAが行事進行の中心となってしまったため、子供たちの主体性を損なう結果となっているとの事だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川里地域の指定文化財」
「Wikipedia」等