古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上池守天神社

埼玉県熊谷市大字池上と埼玉県行田市大字上池守にまたがり星宮地区がある。村内を流れている、星川と古宮用悪水路の「星」と「宮」の一字ずつ取り、星宮村とした。昭和24、忍町を行田市に名称変更して市制施行。昭和30年に星宮村が編入された。
 全国には「星宮」のつく星宮神社・星神社と星宮の地名が多く存在し、その中心は栃木県である。栃木県内では「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌を伴うことが多い。
 星宮は、全国で348社。その分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。因みに石裂山とは、「おざくさん」と読み、前日光・鹿沼市と上都賀郡粟野町(現鹿沼市)の境にある山で、勝道上人の開山と伝えられ、古くから「おざく信仰」の山として知られる。
 上池守地区の「星宮」と何か関連性はあるのだろうか。 
        
             ・所在地 埼玉県行田市上池守740-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧上池守村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1569084,139.4307418,17z?hl=ja&entry=ttu
 上池守天神社は埼玉県道128号熊谷羽生線の「上池守北」交差点の南角に鎮座している。上池守の村社格の神社社殿、参道は南向きであり、車の進行方向上に沿う道に面した部分には石玉垣で境内が囲われている為、一旦T字路の交差点を右折し、すぐ先の鳥居前と隣接している商店の間に路地に進む。路地の奥には多少の駐車スペースがあり、そのスペースに車を停めて参拝を行った。
        
                    二の鳥居
『日本歴史地名大系 』「上池守村」の解説
 北は星川を隔てて下川上村(現熊谷市)、南は中里・皿尾の両村、東は中池守村・下池守村。条里遺構が地下に埋没している。中世には中・下の池守村とともに池守郷に含まれた。観応三年(一三五二)七月二日、室町幕府管領・武蔵守護仁木頼章は足利尊氏の命により池守郷および大里郡久下郷内宇波五郎入道・同七郎等跡(現熊谷市)地頭職を、久下弾正忠頼に引渡すよう仁木義氏に命じている(「仁木頼章奉書」久下文書)。

                
                     拝 殿
 新編武蔵風土記稿による上池守天神社の由緒
 上池守村 天神社三宇
 一は村の鎮守とす、皆村持なり

 
上池守天神社が鎮座する上池守地区は、現在の熊谷市星宮地区にあり、嘗ては北埼玉郡星宮村であった。その前の江戸時代は池上村・下川上村と、これ又地域の歴史を物語る由緒ある村の名前をもっていた。池上、下川上の地名の由来としては
・池上…中世、埼玉郡内にあった池上郷の遺名を村名としたもの。なお、池上郷の由来については、現在不明である。
・下川上…はっきりしたところはわからないが、昔あった上川上ノ里が三つの村(上川上村、下川上村、大塚村)にわかれたさい、上川上村に対応する呼称として、“下川上村”と称したものと思われる。〔成田村誌〕
 
           社殿左側に鎮座する
境内社宇賀神社(写真左・右側)
 
       境内社 八坂神社等        
芭蕉の句碑は社殿の左方に建立されている
                          
 上池守天神社が鎮座する「池上」地区「上之」地区に隣接し、古代から開発が進んだ地域だったといわれている。
 奈良時代の律令制度では、各国には「郡」がその下部組織としてあり、その「郡」には必ず「郡衙」が存在していた。(因みに武蔵国は22郡置かれていて、陸奥国の40郡に次いで多い)
中でも郡正倉は、米を貯蔵するための倉庫として重要な施設であり、その立地条件としては、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。「武蔵国埼玉郡衙」は未だに不明とされているが、その有力候補地の一つがこの「池上」地域とも言われている。
        
                                     境内の一風景

 行田市小敷田(こしきだ)遺跡と、これに隣接する熊谷市池上遺跡の場所がその最も有力な候補地と考えられていて、そしてその所在地を推定する際の決め手になるのが、河川交通との関係である。
 それぞれの遺跡からは九世紀前半ごろと思われる「中」という文字を記した土器(墨書土器)が出土しており、立地条件などからみてもこの両遺跡は実際には一体の遺跡と考えられるが、ここで注目しておきたいのは、両遺跡から見つかった「倉庫」に関係する遺構・遺物である。まず小敷田遺跡では、先の出挙木簡をはじめとする八世紀前後の木簡群が、二基の土坑(どこう。地面に掘った大きい穴)に廃棄された型で出土し、更にこの土坑に隣接して二×二間と二×三間の総柱建物(一般に建物の周囲の壁を支える柱だけで構成され住居などに利用された側柱建物に対して、建物内に床を支える束柱を持ち、床に対する負荷に耐える構造となっている)の跡と、嘗ての河川跡が見つかっている。推測するに、この二棟の総柱建物跡はその構造上から倉庫的な機能を有していたものと考えられ、返済された出挙の本稲(実際に貸し出されたものと同量の稲)や利稲(利息の稲)などが河川の舟運を利用して輸送され、ここに出納されていたことが推定される。
 また池上遺跡からは、九世紀中葉以前とされる木製の扉が出土しており、これには、一般に倉庫扉などに多用された「落とし猿」用の鍵穴が穿孔(せんこう)されていることから、倉庫扉と推定されている。このように両遺跡には、倉庫的な施設が存在していたようであり、おそらくこれらの倉庫に収めたであろう田租や出挙稲といった物資の輸送には、河川の舟運が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。
 埼玉県内の他の郡衙関係遺跡の立地をみても、嘗ての武蔵国榛沢郡の郡衙正倉跡とされる岡部町中宿遺跡も人工の運河に接して立地しており、同じく初期の足立郡衙跡が所在した可能性があるさいたま市大久保地区も、旧入間川(荒川)の自然堤防上に存在した可能性が強いなど、北武蔵地域においては、それぞれの郡衙、特に正倉は、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。
 

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下池守子安神社

『池守村子安明神の伝承』
 神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり。色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
 昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。よって び今のように鎮座していただいた。
 
        
              ・所在地 埼玉県行田市下池守549
              ・ご祭神 木花咲哉姫命
              ・社 格 旧中池守村鎮守・旧村社
              ・例祭等 夏祭り 816日(お子安様の祭り)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1645404,139.4424489,17z?hl=ja&entry=ttu   
 下池守子安神社は国道17号バイパスを行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折する。暫く真っ直ぐに進み、上池守(北)T字路の次の信号左側に鎮座している。位置的には行田総合公園の北側になる。隣接する下池森農村センターに駐車スペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
        
           
下池守子安神社正面鳥居とその前には社号標あり
 
  
参道左側にある石室の蓋と思われる石材       境内社 詳細分からないが、
         詳細不明           左側の社はその置物から稲荷社だろうか。
        
 子安神社の由緒
 中池守村 子安明神社
 村の鎮守なり。神体は18分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
 神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
 子育石。長さ2
寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 下池守子安神社の創建年代は不詳。但し天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられている。
        
『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』には61話の昔話が掲載され、その中に「子安神社 下池守」の記載があり、全文紹介する。
 下池守の子安神社は、霊験あらたかな安産の神として知られ、古くは各地から子安講(こやすこう)の参拝団が、三月十七日の祭祀に集まったといいます。それだけに、おもしろい伝説がたくさんあります。おもしろい伝説というのを調べますと、確かにありましたので、今日はそのお話といきましょう。
 村の鎮守となった「子安神社」の御祭神は「木花咲哉姫命」であります。そして内陣には赤子を抱く子安観音像を安置しております。また、文政五年に作られた神宝筥ばこの中には子安玉、子安貝、子育て石の三つの御神宝が納められております。
 今からおよそ四百年前の忍城水攻めの時、石田勢の北の攻めは浅野長政が担当しておりました。当時城攻めの常として、彼らは付近の民家、社寺をすべて焼き払う作戦をとり、須加城を落とした石田勢は一挙に埼玉に南下し、浅野勢は西に向かって焼き打ちを続けておりました。農民は難を逃れるに先立ち、子安観音像と三つの御神宝を壺に入れて土の中に深く埋めました。そして後でわかるように、柏の木を一本植えて逃げたといいます。三つの御神宝は「玉質水晶の如く直径八分計り、子育て石は長さ二寸計り、内一寸計り」というものでした。それから、ちょうど百年程経ち、江戸元禄時代となりました。その時の柏の木は高さ三メートルを超える喬木となっておりましたが、いつの頃からか、その目印の柏の木が「夜になると光る」という評判が立ち、気味悪がってその前を通る者がいなくなりました。
 ある日、一人の霊力の強い男によって、その柏の木を切り倒すことになりました。すると、切り株の下の方の絡み合った根っこの中が光り輝いており、不思議に思った男は、思い切って 鉞を振り下ろしました。根っこの抱いていたものは、伝説の壷でした。「誤りて鉞をいたく当てれば壺を少し打ち砕きぬ」と、記録が残っていますが、御神像の背と腰のあたりに、その時の鉞の傷が確かに残されております。
 その後、観音像と御神宝を納めた子安神社が再建されました。「忍名所図会」という記録によりますと、神社の社宝に「水晶の玉」と二寸ばかりの「子育石」があると書いてあります。両方ともその通りの大きさで、特に子育て石は那智黒石で「濃墨のごとくして形平に金粉を置きたる如き筋あり」とあります。一見、鶏の卵をたて割りにしたような形でありますが、中にある筋二本が黒い貝を思わせます。今では、子育て石といわず「試金石」と言われております。なぜならば、いつの頃からか、「この御神像は金で出来ている」と噂になり、その子育て石になんと御神像の鼻をこすりつけてみたというではありませんか。確かに表の丸味のある方の隅っこに、数本金色の筋がついております。そして御神像の鼻が、青銅色がとれて金色になっており、これもまた伝説の通りでありました。
 さらに「忍名所図会」には、「天明年中に、社僧、神像並びにこの神宝を携えて去る、その後熊谷の旅亭に宿たるに奇怪ありて神像並びに二宝を捨置き、僧は行方しらずなりぬ」とあります。地元下池守地区に伝わっている話では、やはり社僧が神像二宝を盗み出したのですが、なんと近くの橋の所まで行くと、社僧は急に腰が抜けてしまい、歩けなくなってしまったという話であります。いずれにしましても、この珍しい形の御神像と三つの御神宝は今日まで無事に伝えられているようですよ。めでたし、めでたし。
        
                   庚申塔地蔵尊等
 『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』では子安神社の話の中に出ている子育て石である「那智黒石」にも丁寧に説明がされている。
那智黒石
 那智黒石が文献にあらわれる最初は「紀伊続風土記」で、このあたりで採れる黒石は相当古くから知られていました。この地にある熊野本宮大社は、熊野信仰で有名な格式のある神社であります。熊野速玉神社、那智大社のいわゆる熊野三山は平安の末期より「「蟻の熊野詣」の時代で、いわゆる末法思想が起こり、仏法が衰え、社会は乱れて、世は末世と考えられ、人々は争って、西方浄土に往生することを願いました。そして熊野詣での証しとして、その黒石をすくい、あるいは山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、熊野から帰った後も、往生の念仏を念じ、手すりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」の荘厳さを思ったに違いありません。いずれにしても、その名の由来は、人々の口から口へと伝言で伝わり、いつのまにか那智黒石といわれるようになったそうです。
        
                    境内の様子 
 下池守子安神社のご祭神は木花咲哉姫命である。日本神話に登場する女神であり、非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれている。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっている。
 天照大御神の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあり、日本神話で最も美しいと誉れ高い女神で、古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されている。この女神は神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られていて、主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神でもある。
 過酷な状況での出産を無事に成功させた(火の中で無事に3人の御子を出産)ことから、安産や子育ての神様としても祀られていて、御子を育てる際には、お乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあり、そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされている。
 木花咲哉姫命は本来富士浅間神社の主祭神で富士山の神様だが、民間信仰の子安神と結びつき、子授けや安産の神として庶民生活に密着して広く信仰されていく。この神様が非常に庶民的な顔を持つようになったのは神話に描かれる内に秘めた強靭な母性力にある。
 古来、日本では出産を控えた女性が安産を願うという信仰はさまざまな形で広く行われていた。そうした民俗信仰のなかで代表的なものである子安信仰が、神話のイメージと重ねられたのであろう。

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明用三嶋神社古墳

        
        
 三嶋神社古墳(みしまじんじゃこふん)は、埼玉県鴻巣市にある前方後円墳である。
 ・全長55
 ・後円部直径27m、高さ1.5
 ・前方部幅15m、高さ1.8
 墳頂に三嶋神社が建立され、墳丘は変形を受けている。1875(明治8)に地元民により後円部から横穴式石室が掘り出されたと伝えられ、社殿の前に敷かれた緑泥片岩は石室天井石と思われる。1959年(昭和34年)116日付けで吹上町(当時)指定史跡に指定された。
 1983年(昭和58年)発掘調査が行われ、墳丘や周溝から円筒埴輪、馬形埴輪、人物埴輪が出土した。6世紀後半の築造と考えられる。
                                  「Wikipedia」より引用
 
  拝殿前の階段下右側には石室の石材である  拝殿前の階段下左側には三島神社古墳の案内板 
      緑泥片岩が置かれている         
鴻巣市指定文化財(史跡) 三島神社古墳             昭和34116日指定
 元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の前方後円墳で、墳丘主軸をほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘はすでに大きく削られ、埋葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
 墳丘の規模は、昭和58年の周溝確認調査によって主軸長約55m、後円部径約3mであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。
 本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から6世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、南東6キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。

 平成286月                           鴻巣市教育委員会より引用
        
             
社殿のある前方部から後円部方向に撮影

古墳時代、さきたま古墳群では5世紀後半築造の稲荷山古墳礫槨と粘土槨に舟形木棺が用いられていて、埋葬者と何らかの点で河川、海との関係性があった事が指摘され、また同古墳群内で6世紀後半に築造された将軍山古墳の横穴式石室には、千葉県富津市保田から鋸南町金谷付近で採集された、所謂「房州石」が、遥々120㎞の距離で運ばれている。舟運による交易が行なわれていたと仮定するならば、当然需要と供給の論理が成り立つことは当然であることで、千葉県木更津市金鈴塚古墳の箱式石棺の石材には長瀞付近で採石されたと考えられる緑泥石片岩が供給されていることを考慮すると、当時のさきたま古墳群を築いた首長権力者は荒川や元荒川を介して、房総半島との双方向の水運を長い期間保持していたことが推測される。
 最近さきたま古墳群の鉄砲山古墳(前方後円墳 主軸長109m)の横穴式石室入口部が調査され、壁体に群馬県・榛名山二ッ岳噴出起源の角閃石安山岩5面削り石の使用が判明し、7式には行田市・八幡山古墳の巨大石室の壁体にも使用されているとの事から、利根川の水運(こちらは利根川支流である会の川等中小河川を使用したか)で上毛野地域とも繋がっていたとも考えられる。

 明用三島神社古墳は元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。低地に古墳を築造したことには特別の事情があったと思われ、そこには埋葬者と荒川との強い関係性を反映するものと考える。

 明用三島神社古墳から南東方向に
8㎞程行くと生出塚埴輪窯跡が存在する。この窯跡は、古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡で、1976年(昭和51年)に埴輪窯跡が確認され、1979年(昭和54年)には埼玉県教育委員会の発掘調査が開始されて、以後、現在まで分布調査や発掘調査が40回以上にわたっておこなわれているが、遺跡内から40基の埴輪窯跡および2基の埴輪工房跡、および、粘土採掘坑1基、工人と思われる人びとの住居跡9軒、土坑1基などを確認していて、出土品は国の重要文化財に指定されている。
 この埴輪窯跡で生産された埴輪の分布では、行田市の埼玉古墳群、坂巻
14号墳はじめ埼玉県内の諸古墳、また、千葉県や東京都、神奈川県など東国とくに南関東各地の古墳から、生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している所から見ても、埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。
 生出塚埴輪窯跡は大宮台地端部北側傾斜面上にあり、これに沿って流れる元荒川までの距離は現在約
1.0㎞であり、
明用三島神社古墳は元荒川と荒川が結合する地点に築造されている。何か関連性はないだろうか。
        
 荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、それが56世紀であり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうか、不思議と現在も道路として残っている。

 明用三島神社古墳は横穴式石室の構造から
6世紀後半の築造と推測されているが、もうその頃には、運河的な河川は機能され、そこから上がる財も大きかったのではなかろうか。


 

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明用三島神社

 明用三島神社が鎮座する地域は嘗て吹上町と呼ばれ、日本の埼玉県北足立郡にあった町であり、2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入され、市域の一部となった。
 中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地としていっそうの繁栄の契機となった。
「吹上」という地名の由来は古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。

        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市明用123
              ・ご祭神 事代主命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭り 714日 秋祭り 1126
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0950104,139.4611698,17z?hl=ja&entry=ttu
 明用三島神社は旧吹上町の住宅地東端にあり、すこし離れると長閑な田園風景が拡がる。国道17号を鴻巣方向に進み、吹上団地入口交差点を右折、踏切を越えてすぐの十字路を左折し、埼玉県道365号線前砂交差点手前の細い十字路を右折すると右側に三島神社の鳥居が見える。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置している。
 バスを利用するのであれば鴻巣市のコミュニティバス(フラワー号)・中仙道コースを吹上駅南口(下り)より出発して、前砂(上)停留場で下車。一旦吹上団地方向に戻り、上記の細い交差点を左折すると神社に到着する。但しこのコミュニティバス・吹上駅南口からの下りコースは3時間ごとに運行されているため、事前に時間帯の確認は必要だ。コミュニティバスには田間宮コースもあり、こちらならば北鴻巣駅南口からの出発で、こちらは1時間30分毎の運行となり、待ち時間は半分となるが、停車口である龍昌寺から前砂交差点方向に10分弱程歩かねばならない。
 駐車スペースは参道内に社務所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                                明用三島神社参道
       
         道路沿いに建つ社号標          社号標の先に鳥居が立つ
                        
神額には「三嶌大神」と揮毫されている
 明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治31660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかと言われる。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀している。
 
  社殿階段左側にある三島神社の由来案内板       社殿手前右側に鎮座する境内
 
                              三丁免三島神社
 三島神社 御由緒  鴻巣市明用一二三
 □御縁起(歴史)
 当地は荒川左岸の低地に位置する。元荒川の自然堤防上に集落があり、その西方の低湿地に水田が広がる。『風土記稿』によると、当村は鶴間氏の開墾した村で、古くは鶴間村と称し、当初は三丁免村も含んでいたが、元禄十二年(一六九九)に分村したという。鶴間家は累代当地の名主を務めた家柄である。
 当社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮まる。この古墳は町内で最大規模の古墳で、全長五五メートル、後円部径三〇メートルの前方後円墳である。石室は破壊されており、拝殿前などに敷石として利用されている緑泥片岩がこの石室の石材と思われる。
 当社は、『明細帳』に「創立不明 同村鶴間弥五右衛門祭主ト古老ノ伝有(以下略)」と載る。恐らく、村の開発に携わった鶴間家により当社は勧請され、以後同家が代々祭主を務めたのであろう。当社は鶴間家から北東二〇〇メートルの位置にあり、同家の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。
 『風土記稿』には、地内の真言宗観音寺が当社の別当であったと記される。同寺は、三島山明星院と号し、箕田村竜珠院の末寺であったが、開基の年代は不詳である。
 明治に入り観音寺の管理下から離れた当社は、明治六年に明用村の村社となり、同二十七年に本殿を改築した。
 その後、明治四十一年八月十六日、三丁免村の村社と合祀になり現在に至る。尚、三丁免の村社には、天満社・八坂社・稲荷社・三峯社・還護社・筧社が祀られていた。
 □御祭神と御神徳 
 ・事代主命・・・商売繁盛、家庭円満、病気平癒
 □御祭日
 ・元旦祭(一月一日)   ・祈年祭(二月第三日曜日)
 ・夏祭り(七月第二土曜日)・秋祭り(十一月二十三日)           案内板より引用
        
                  石段の先にある拝殿
 新編武蔵風土記稿による明用三島神社の由緒
 明用村
 明用村は村民鶴間氏の開墾せし所にて、古は鶴間村と稱せしを何の頃よりか今の如く改めし と、又昔は三町免村も當村にこもりて一村なりしといへり、其地は箕田郷に屬し(以下略)
 三島社
 古塚の上に鎮座す、塚の高一丈餘ばかり、六七間にて横に長し、社に向て左の方に長九尺、幅五尺餘の石片面あらはれてあり、昔村民此石を堀出さんとなせしかば、忽ち祟りを蒙むりしとて、其後は恐れて手を觸る者なしと云、按に此塚は古代墳墓にして、顯れし石は全く石と見えたり、おもふに下總國那須郡國造塚の類にして、郡司などいふものゝ葬地なるべし、又近郷箕田村の古塚も是と同じ形なり、
 末社。天王社、稲荷社、天満宮

因みに明用三島神社古墳に関しては後日解説する。

 明用三島神社に参拝中不思議に感じたことがある。本来三島神社のご祭神は「大山祇神」であるはずなのに、この社では「事代主神」という。帰宅後調べてみると次のような結論となった。(引用Wikipedia)
三島神社の総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社であり、全国に400社余り存在し、伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。
 三島大明神の本体はというと、多くの三島神社が大山祇神としている。大山祇神社については、延喜式神名帳でも大山積神社の名で記載されており、祭神が大山祇神であることは確実視される。13世紀の『釈日本紀』に引用される『伊予国風土記』(逸文)にも「御嶋(三島)に座す神は大山積神」という記述がある。三嶋大社についても前述の『東関紀行』や『源平盛衰記』『神道集』のほか、『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』なども大山祇神としている。
 同時に賀茂氏との関係も示唆され、事代主神を祭る三島神社も多い。室町時代の『二十二社本縁』に「伊豆の三島神(現:三嶋大社)は都波八重事代主神で、伊予の三島神(現:大山祇神社)と同じ」という記述がある。三嶋大社は江戸時代以前では主祭神を大山祇神としていたが、明治に国学者の支持を受けたことから主祭神を事代主神に変更し、昭和に再度大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めている。これを受けて、一部の三島神社は事代主神単独、または事代主神を併せて祭っている。
 
        境内社琴平・八坂・天神合殿          境内社道祖神・稲荷社か 
                           これらは社殿の左側に鎮座している。 
    境内社塞神二基・天神・伊奈利・八坂等      境内社三峰神社(三つの石祠) 
       こちらは三嶋神社古墳の後円部から前方部にかけて祭られている石祠群である。

 もう一つ疑問点がある。この明用三島神社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮座している。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。55m級の古墳は郡単位の公権力を持ち、尚且つ財力を併せ持つ人物だったにちがいない。
 この古墳の埋葬者はどのような人物だったのだろうか。


 

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糠田氷川神社

埼玉県では平成20年『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の報告書を提出している。この報告書は、平成 20 年度の彩の川研究会が実施した『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の結果をとりまとめたものである。
「鎮守の森」は、その土地本来の樹木によるふるさとの森であり、地域の守護神 を祀った社寺林である。埼玉県東部や荒川沿川の低平な洪水氾濫地帯では、私的な 水防災施設としての「水塚」に対して、「鎮守の森」は公的な水防災拠点としての 機能を有していたのではないか考えられる。
 戦後の高度経済成長に伴う人口集中による都市化の中で、「鎮守の森」は激減の一途を辿った。埼玉県内における過去の分布、現存地について調査し、その機能を検証して、保存と復元再生策を研究することにより、地域の水防災拠点の構築ならびに環境の整備に資することを目的に、本調査研究を実施するものであった。
 鴻巣市糠田地区の糠田氷川神社は荒川左岸の低地に鎮座している。村の鎮守として、またご先祖様の御霊を慰め、おまつり(お祭り)する社として、また同時に「鎮守の森」として地域の方々の水防拠点の位置づけを担う社としての一面も持ち合わせていた。
        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市糠田1342
              ・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
              ・社 格 旧糠田村鎮守・旧村社
              ・例祭等 春の中祭 2月下旬の日曜日 風祭り4月第一日曜日
                   夏大祭 71415日 秋の中祭 11月下旬の日曜日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0636834,139.4843825,17z?hl=ja&entry=ttu  
 糠田氷川神社は埼玉県道76号鴻巣川島線を南下し糠田橋方向に進む。陸橋手前の十字路を右折し、その後荒川左岸方面に向かうと氷川神社入口に到着する。位置的には糠田運動場多目的グランドの西側に鎮座している。
 駐車スペースは鳥居前に数台分確保されているが、舗装されていないので、足場は悪い。駐車する際には凸凹面には注意が必要だ。
        
               入り口付近にある社号標、案内板等
 
     
社号標 但し平成27年4月撮影     「鴻巣市氷川神社社叢ふるさとの森」案内板
        
            長い参道の途中・右側の社叢内にある浅間神社
             
                 長い参道先に鳥居あり
        
                     拝 殿
         
                境内に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒   鴻巣市糠田一三四二
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の糠田は、荒川左岸の低地に位置し、その地内には、かつて「糠田の渡し」と呼ばれる荒川の渡し場があった。対岸の比企郡須戸野谷新田(現吉見町)と結ぶこの渡し場は、糠田河岸という河岸場でもあり、熊谷の久下から下って来た船の、最初の休み場であった。
この糠田の鎮守である当社は、朝日山と呼ばれる台地上に祀られ、須佐之男命と稲田姫命の二柱を祭神とする。そのため、本殿は二間社の流造りとなっており、内陣には「氷川大明神御宝前 享保三年(一七一八)戌二月吉日」の銘のある金幣が納められている。なお、当社の境内は、昭和五十五年に県から「ふるさとの森」に選定された美しい社叢に包まれており、社殿はこの森の中央にある。
 当社の由緒については、『風土記稿』糠田村の項に「氷川社 村民の持 文禄の頃(一五九二‐九六)まで小社なりしが寛永年中(一六二四‐四四)村の鎮守として造営すと云」と記されている。この記述と、境内が地元の旧家の河野権兵衛が代々住居を構えた「権兵衛屋敷」に近い所にあることから、当社の創建には河野家が深くかかわっていたと推測できる。現在の本殿は、享保三年(一七一八)に建立されたもので、平成五年には市の有形文化財に指定された。ちなみに、この本殿の四周には精緻な彫刻が施されているが、数年前にその一部が心無い輩に盗まれてしまったことが惜しまれる(中略)
                                      案内板より引用
             
                                         本  殿
        
         鴻巣市指定文化財(建造物) 平成五年十月一日指定  氷川神社本殿一宇
 氷川神社は、かつては朝日山と呼ばれ須佐之男命・櫛稲田姫命が祀られている。創建年代は、はっきりしていないが現在でも地区の人々の崇敬を集めている。
文禄年間(一五九二~一五九六)までは社も小さかったようであるが、寛永年間(一六二四~一六四四)になって村の鎮守となり、規模も大きくなったようである。明治六年には当時の田間宮村の村社となった。
 本殿は二間社流造破風・軒唐破風付き、板葺本殿で、尾垂木に龍と鳳凰を配している。
本殿を飾る彫刻類は美術的・工芸的にも優れているうえに保存状態も良い。棟札は一八世紀はじめの享保三年である。近世の社殿としては埼玉県内でも比較的古い時期の建築であり、しかも建築年代がはっきりとわかる例として貴重である。しかし、全体の作りは一八世紀後半の社殿建築様式となっており、後世に一部改築された可能性がある。(中略)
                                      案内板より引用
 埼玉県土の東部平野部を占める低平地は、「埼玉平野」とよばれ、古代より利根川をはじめ荒川や渡良瀬川の氾濫によって形成された。徳川家康の関東への移封以降埼玉平野の開発が本格的に進むにつれ、利根川等幹川の治水・利水が施された。近世の埼玉平野は、徳川幕府や親藩の穀倉として基盤を築かれたが、現代の先進的な土木技術とは違い、数多くの洪水が沃土を侵害したことが書簡・文面からも読み取れる。
 どの時代もそうだが、洪水災害等の氾濫が居住地を襲ったとき、住民は当然水より高い場所に避難する。埼玉平野は広大な低地であり、住民が生活する集落は、自然堤防などの微高地が大部分である。その微高地の中でも僅かに高い場所に寺社が建っていることが多い。所謂神社ならば「鎮守の森」である。同じく寺院の場合も山号をもつように、山に立地しているものが多い。 微高地の集落が氾濫による浸水に襲われた時、より高い寺社の地に避難したのは、自然の成り行きと考えられる。このような大水から、鎮守の森などに避難する行動は、当時の民衆の習慣・慣例となって各地に言伝えられているのではないだろうか。
 

      土手側に鎮座する八坂社          拝殿手前でやはり土手側に神楽殿 
  その他境内には社殿奥に大國社・琴平社・天神社・八幡宮・稲荷社等が祀っている。

『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』報告書では、この広域な埼玉平野で大水から逃れる手段として、このような実績などについて、言伝えや記録の調査を行なったもので、大水害の記録は現代も同様であるが、近世文書においても洪水の被害状況や、被災箇所の普請のほか、年貢の減免申請など関係文書は多数みることができるという。
 糠田氷川神社もその避難場所として、史料として残されている。
 ○明治43811
 ・十一日午後七時北足立郡田間宮村大字糠田堤外の家屋は床上浸水百七十八戸、同村大字登戸床上同八戸、同大間道三戸、同中野は床上浸水二十四戸に及びたるを以て、老幼婦女等は東光寺、大間の氷川神社境内に避難したり、‥‥
(概況)
 ・明治43年は、晩霜や降雹などの異常気象が相次ぎ田植時には異常乾燥とも云うべき日照 りが続き、このため水喧嘩が各地で起こったと云われる。関東地方では、7月下旬から雨が 降り続き、8月に入ると1日から前線や低気圧が停滞して連日大雨となり、また台風の接近 により暴風雨となった。この降雨は8月16日まで続いた。
(糠田地域の状況等)
 ・8月8日早朝から引続き暴風雨のため荒川の水位は上昇し続けていた。 10日夕方には水位が堤防法面半ば以上に達した。馬踏12尺の内中央より崩壊法先田面へ押 出地下より漏水が始まり土俵羽口工、竹砲工及び五徳工等施工した。 本箇所の応急工事は、崩壊長78間(約140M)におよび、土俵羽口工として空俵7200俵、 莚273枚、唐竹5550本等の資材は3日間で全て取揃えた。また、作業員は、1日平均656名が 昼夜兼行就業を続行し、7日間で竣功させた。
 ○昭和22年(1947915日 カスリーン台風
 ・本宮田間宮小学校、氷川神社々務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、九月十五日夜半より九月廿一日まで一週間、収容延人員 1,023人を算するに及んだ。
(概況)
 ・荒川の氾濫に備え、9月15日午前8時30分消防団全員、更に各戸1名宛の奉仕員で防水班を編成、準備態勢を整えた。 その後、荒川の水位は刻々と上昇し越水の危険が迫ったので、全村民男子総動員を指令 した。また、隣町村消防団員、鴻巣町警察署員併せて103名が応援にかけつけた。 午後5時10分溢水する堤防口から徐々に決潰が始まった。出動人員1663名必死の水防も空 しく、午後5時40分頃樋管堤防(渡内)が一大音響と共 に破堤した。さらに、午後6時30 分頃他の樋管堤防(行人)も破堤した。奔流は、大海の怒濤の如く耕地に浸入、民家も次々 と水没していった。(被害者の避難所設置)
 ・田間宮小学校、氷川神社社務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、9月15日か ら同月21日まで1週間、延べ人員1023人を収容した。 当村内非浸水地帯秋元酒造工場外五箇所に、消防団員、婦人会主体に、炊出しを開始し、 一日平均1397名に対し、16日から4日間給食に努力した。 (この間の食糧は、米25俵、コッペパン15000個であった) 

 上記の報告書では、過去の出水の際多くの「鎮守の森」が緊急の避難地、また助け合いの拠点 として大きな役割を果たしたことなどを明らかにしている。当面は、関係行政機関に寄贈し役立てていただくとともに、さらに目的に沿って研究を深め、図書館、出前講座等多くの方に役立つ方策を検討し、河川への深い関心をもっていただく契機としたいと結んでいる。
       
                         参道の両脇に聳え立つ巨木群(写真左・右)
               悠久の歴史を感じ、同時に参拝中も厳かな気持ちにさせて頂いた。
        
 氷川神社の社叢林はケヤキ、カシ、イチョウ、スギ、ヒノキなどで構成され神秘的な雰囲気を持つ。0.74haが埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。

 ほぼ解説の中心は「水害」に対しての鎮守の森の効果のみ述べてしまうことが大半であったので、ここで鎮座している「糠田」の地名に関しても考察したい。
 この「糠田」という地名の由来に関して、当初は「額田」が関係しているのではないかと考えた。日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦を新羅に遣す。千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりといふ」との記述がある。ここで出現している「千熊長彦」は『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)の時に対百済・新羅外交にあたったとされる人物で、一説に武蔵国の人物で額田部槻本首(つきもとのおびと)らの祖とされている。この額田部槻本首は摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)が根拠地であるようで、その後日本武尊に従い関東へ移ったようだ。
近江国御上神社神主三上祝系図に「天照大御神―天津彦根命(天降而居出雲国意宇郡屋代郷、後遷近江国蒲生郡彦根神社)―天御影命(又、天目一箇命)―意富伊我都命―彦伊賀都命(神武天皇世、居蒲生郡於馬見丘奉斎神社)―天夷沙比止命(和泉国川枯首祖)―川枯彦命(近江国甲賀郡川枯神社)―坂戸毘古命(孝元天皇世、奉斎三上神)―国忍富命―筑箪命(崇神天皇世、筑波国造)―忍凝見命(垂仁天皇世、為大湯坐部)―建許呂命(日本武尊東征時随従)―大布日意弥命(為須恵国造)―千熊長彦(額田部槻本首祖)」
 この系図には天照大御神から天津神系の天津彦根命〜千熊長彦までの流れを記しているが、この系図をざっくりと解説すると、天津彦根命の子である天目一箇命は製鉄・鍛冶神で、筑紫国、播磨国、伊勢国等に登場する神で、その子孫が和泉国⇒近江国と東方面に移動し、日本武尊東征時に随従し、筑波国に到着。須恵国は天平勝宝五年文書に上総国須恵郡額田部郷と記載され、和名抄に上総国周准郡額田郷・湯坐郷(千葉県君津市糠田、湯江)と見えることから、千葉県に移動していることが分かる。因みにこの系図に記されている神々は全て鍛冶に関係していることは、「湯坐部」「湯江」の地名からも明らかで、湯坐(ゆえ)とは、金属が熱に熔けた状態を湯という、鉄をドロドロに熔かす工人を湯坐部といったという。ということは須恵国も同様に火事に関連した名称で、陶(すえ)を製造する氏族の居住地だったとも考えられる。
 千熊長彦の祖先である天御影命(又、天目一箇命)は『古語拾遺』によると筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも言われている。天太玉命の孫である天富命が阿波の斎部を率いて東に赴き、安房・下総・上総国の基をつくったとされている。

 また安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。千熊長彦は武蔵国比企・入間・高麗地方の鍛冶集団額田部一族を統率した首領だった可能性も捨てきれない。

 鴻巣市には生出塚埴輪窯跡と言われる埼玉県鴻巣市にある古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡があるが、同時期馬室(まむろ)埴輪窯跡も存在している。馬室埴輪窯跡は、鴻巣市南西端、荒川に臨む河岸段丘に作られた古墳時代後期の半地下式無段登窯群遺跡で、10基以上の埴輪窯跡が確認されている。糠田地区はその馬室埴輪窯跡に近い場所でもある為、糠田=額田=千熊長彦と連想してしまうわけだ。
 その一方で、「糠田」の地形を見ると、当時(現在でもそうだが)糠田村は荒川に隣接するだけでなく、地形的にも他の地域に比べ相対的に標高が低く、周辺の村々からの悪水(排水)が集まってくる地区であったようだ。そのため水害(洪水だけでなく、内水による湛水被害を蒙っていた)が多く、恒常的に湛水被害に悩まされていた為、「泥濘の多い場所」の意味で「糠(ぬかる)+田」とつけたのかもしれない。

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