古郡北向神社
ところで郡家の認定基準は、地理的条件、歴史的環境、遺構の種類・規模・配置・遺物等から総合的に判断される。出土遺物がほとんどなくとも大型建物群が規則的に配置されたり、建物群が貧弱でも、官衙に関わる木簡や墨書土器が大量に出土するなどすれば、それらの遺跡は群家かそれに近い官衙遺跡と判断される場合もあるようだ。
上記の判断基準を参考に那珂郡の群家の立地地区を考えてみると、遺跡こそ多いが、群家に相当する大型建物群や、木簡および土器等の大量出土した遺跡がなく、絶対的な場所が特定できず、判断に苦しむところだ。わずかに「古郡」という地名だけが嘗てこの地に群家があったことをわずかに伝えている。
・所在地 埼玉県児玉郡美里町古郡257
・御祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命
・社 挌 旧古郡村鎮守 旧指定村社
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日 新嘗祭 11月23日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.180719,139.1865344,16z?entry=ttu
古郡北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線阿那志交差点を寄居方向に南下し、しばらくすると左側に当り一面田園風景の中にポツンとこの社の社叢林が見える。
但し社に進む進入路が途中から舗装されてい無く、また車一台が進むほどの車幅しかないのには少々驚いた。また専用駐車スペースもないようなので、一の鳥居を越えた場所にお地蔵様を祀るわずかな空間に停めて参拝を行った。
入口付近に設置されている案内板
古郡北向神社正面一の鳥居は狭い空間上にあり、その中に社殿は存在する。
拝 殿
北向神社 御由緒 美里町古郡二五七
□御縁起(歴史)
当社の鎮座する大字古郡は、その地名が表すように、古代の那賀郡(なかぐん)の郡役所としての郡家が置かれたことに由来するという。また、武蔵七党の猪俣党の一族、古郡氏の本拠地でもあった。
当社は社号が示すように真北を向いて鎮座しており、この向きは霊峰赤城山の最高峰黒檜山(一八二八メートル)を見据える形になっている。
創建を明確にする記録は伝えられていないが、当地黄檗宗日光山安光寺に残る寛延元年(一七四八)の鐘銘及び宝暦元年(一七五一)の「武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記」には次のように記されている。
坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征討へ赴く途次、上野国緑野郡勅使河原に陣を設けた折、身馴川の十丈の淵に棲む神竜(大蛇)が川を渡る者を水死させることから、人々が往来に困っていることを聞き、日光山(同寺の裏山か)より赤城大明神に誓願をなし、大蛇を退治できた。よって、誓願の通り川上に江の浜の虚空蔵、川下に薬師四仏、北向大明神五社(古郡・阿那志・小茂田・沼上・北十条)を建立し、大蛇の尻尾を埋めた跡に同寺を建立した。なお、同寺は永禄年中(一五五八‐七〇)に焼失したため、当社の別当は真言宗光明寺が務めていた。現在の安光寺は元文年中(一七三六‐四一)の再興である。
明治四〇年に宇森浦神明神社、字下耕地二柱神社、字六所六所神社を本殿に合祀、字森浦の愛宕・諏訪・雷電の三社を境内に移転した。
案内板より引用
拝殿向拝部・蟇股部付近には金で飾られた煌びやかな彫刻が施されている。
拝殿上部に飾られた彩色豊かで煌びやかな彫刻が目を引く(写真左・右)。
この社は、規模はさほど大きくはないが、拝殿部の煌びやかさは他の北向神社を凌駕する。
本 殿
社殿の奥周辺には、多数の境内社・合祀社・末社・石祠・石碑等鎮座している。板版にて説明文も掲示されていて、参拝中大変参考となった。
愛宕神社 聖天社 諏訪神社 天手長男社 秋葉神社 八坂神社
雷電社 八幡大神 弁天社
社殿の右側にある社日 社殿の奥にある磐座(陰陽石)
社殿の左側奥に鎮座する明神社 天神神社、琴平神社、御霊神社
ご神木
丹党古郡氏は、那賀郡古郡村より起る。字上耕地の志戸川の支流堤防上に古郡氏の館跡があり、書物等にも古郡氏の歴史の一旦を垣間見られる。
・武蔵七党系図「中村三郎右馬允時経―古郡入道時員」
・吾妻鑑巻四十「建長二年三月一日、古郡左近が跡」
・典籍古文書「建治元年五月、武蔵国・古郡左近将監跡七貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
等の記載がされている。
「古郡」という地名は県北に居を構える筆者にとって、多少ならず馴染みある地名であるが、日本全国ではなかなか見つけることのできない珍名でもある。しかしその語源は律令時代前から続く由緒ある地名でもあり、神社参拝と同時に地名由来を調べている筆者にとっては、価値のある参拝となった。